君のいた時を愛して~ I Love You ~
 その屋敷は、以前見たときと同じく、どっしりと周りの家々を圧倒するようにそこにあった。大きな黒い金属製の門は、招かざる客を退ける魔よけの役を果たしていた。
「とうとう、来ちゃったな・・・・・・」
 コータはつぶやきながら、堂々と飾られている『渡瀬』という表札を見ながらため息をついた。ここは、一度は強引に連れてこられ、数日にわたり、コータが監禁された遺伝子レベルで言うところの父、渡瀬航(こう)の屋敷だった。
 平日の昼間、いるのは義理の母と言うべきなのか、父の妻と呼ぶべき人なのか、よくわからないが、父の航よりは真剣にコータの話を聞いてくれそうな人だった。
 門の前で一度大きく息を吸い、悩みを吹き飛ばすように息を吐くと、コータはインターフォンのボタンを押した。
 軽やかなメロディーの後、『はい』という女性の声がした。
「あの、奥様はご在宅でしょうか?」
 コータの問いに、『どちらさまでしょうか?』と相手は厳しく誰何(すいか)した。
「あ、あの・・・・・・。中村幸多と言うものです」
 コータが名乗ると、相手は『お待ちください』と言ってぷつりと通信が切れる音がした。
 それから、遠い屋敷の中での出来事は計り知れず、もうだめかとコータがあきらめ、門前を去ろうとしたころ、遠くに見える玄関から女性が姿を現した。
 遠目にも、父の妻である薫子であることがコータにはわかった。
 女性は門のところまで歩いてくると、まじまじとコータの顔を見つめた。
「あの、この前は大変失礼致しました」
 コータが深々と頭を下げると、女性は大きな門の脇にある通用門を開けてコータに入るように手招きした。
「失礼いたします」
 コータはもう一度頭を下げて言うと、門をくぐった。
「いま、お茶の支度をさせています。主人、いえ、お父様は、今日は会社の方で遅くなるとの連絡を受けておりますのよ」
 薫子は言うと、コータを応接間に案内した。

 そこは、最初にコータが案内された部屋だった。あの時のまま、装飾品も何もかも同じで、違うのは飾られている花だけだった。
「どうぞ、おかけになって」
 薫子に勧められるまま、コータはふかふかのソファーに腰を下ろした。
 薫子が次の句を発する前に、インターフォンで対応した女性と思われる熟年の女性がコーヒーをコータの前と薫子の前に置き、一礼して去っていった。
「以前は、親切にしてくださったのに、大変失礼をいたしました」
 コータはもう一度薫子に頭を下げた。
「そういえば、ご結婚なさったんですってね。おめでとうございます」
 薫子は優しい声で言った。
「ありがとうございます」
 コータは自分の結婚が否定されなかったので、嬉しくてお礼を言った。
「お父様は、お怒りでしたけれど、私は幸多さんが幸せになることが大切だと思っているわ」
 薫子の言葉に、コータはこの人なら、自分たちのことを理解してくれるのではないかと感じた。
「急に訪ねていらして、どうされたの? お独りということは、お嫁さんのお披露目でもないわよね」
 薫子は言うと、優雅に高価そうに見えるカップに口をつけた。
「本当に厚かましいお願いだということはわかっているのですが、実は・・・・・・」
 コータはそこまで言って言葉を飲んだ。
 自分が息子であることを否定し、相手が父であることを否定した相手に、本当は血がつながっているからと、裕福な暮らしをしているからという理由で、借金を申し込むことは身勝手極まりなく、恥ずかしい行為だと感じられたからだった。
「お金かしら?」
 コータの心を読んだかのように、薫子が囁いた。
 ビクリと、驚いて体を震わせたコータに薫子は納得がいったという顔をした。
「おいくらと伺う前に、何に使われるのと親なら尋ねるべきなのかしら」
 薫子は少し困惑したように尋ねた。
「実は、家内が白血病にかかり、もう骨髄移植しか助かる方法がないのですが、病院から、入院時に一時金を収めるようにという話があり、あちこち金策に走り回ったのですが、とても、そんな金額を集めることはできませんでした」
 コータの憔悴しきった様子から、薫子はコータの話が嘘ではなく、本当に困っているのだと感じた。
「そう。で、いかほど?」
 コータはカバンからノートを取り出すと、あちこちから都合した微々たる金額を引いた、桁の大きな額を薫子に伝えた。
「そう。そんなに。それほどの額となると、私の一存では動かすことはできないわ。せめて、その三分の一くらいなら、私の自由にできるのだけれど、そこまでまとまると、やはりお父様の許可を戴かないと」
 薫子は申し訳なさそうに言った。
「いえ、最初から、お借りするなら、その・・・・・・。父にも謝らなくてはならないですし・・・・・・。ほんの数日でしたけれど、父が通わせてくれたパソコンスクールでの経験は今の仕事に役に立っていますし。お礼をまず言いに来るのが筋で、お金を借りに来るなんて、厚かましすぎですよね」
 コータは言いながら、俯いて息を吐いた。
「最近、ちゃんとお食事をしていらっしゃる? なんだか、前よりも痩せたように見えるわ」
 薫子の言葉は事実で、コータはやせ細るサチに倣うように、やせ細っていた。
「家内は、家事をする体力がないもので、最近は家内の食事には気を遣うんですが、自分のことはおろそかになっていて・・・・・・」
 コータが近況を話していると、いきなり廊下の方が騒がしくなり、ノックもなしに応接間の扉がバンという音を立てて開かれた。
「あなた・・・・・・」
 薫子は驚いて目を丸くした。
「何をしている、薫子。はやく、そのみすぼらしい男を家から叩き出しなさい」
 航は言うと、怒りを宿した瞳でコータのことを見つめた。
「この間は、ご厚意を無駄にしてしまい、申し訳ありませんでした」
 コータは速やかに立ち上がって頭を下げた。
「少しは常識というものを身に着けたのか?」
「あなた、幸多さんに結婚のお祝いを・・・・・・」
 薫子は必死に取り繕うとしたが、航の怒りは静まらなかった。
「何が祝いだ。あんなろくでもない女と籍をいれ、知っているのか、あの女の母親が刑務所に入っていることを! お前を息子にしたら、薬中の犯罪者まで親族に名を連ねることになる以上、お前を息子として認知することはできない。お前と私は、縁もゆかりもない他人だ。二度とこの屋敷にも足を踏み入れるな!」
 父の怒りはもっともで、コータは返す言葉がなかった。
 家を第一に考え、コータの母ではなく薫子を妻に迎えた父にとって、家とその一族に名を連ねる人間の清廉潔癖さは何よりも大切なことなのだと。
 それでも、コータは父の前に歩み出ると、その場に土下座した。
「これ一度きりとお約束します。二度と、この屋敷の門をくぐらないと約束します。ですから、お金を貸してください」
 床に額を擦り付けるようにして言うコータを航は冷たい瞳で見つめた。
「金だと?」
「はい。どうか、貸してください」
「返す気もない借金は、強請(ゆす)りたかりというのだと知らないのか?」
 航の言葉に、薫子が『あなた』と声を掛けた。
「幸多さんは、ちゃんとお勤めされて、あなたが手配したパソコンスクールで学んだことも今では役に立っていると、感謝されているのよ」
 コータの肩を持つ薫を鬱陶しそうに航は振り払った。
「私の選んだ娘と結婚していれば、今頃は渡瀬幸多になって、誰に恥じることもなく、私の後継者として社で第二位の座についている」
「時間はかかっても、必ずお返しします。ですから、どうか・・・・・・」
 必死に頼むコータを怒りに任せて航は踏みつけた。
「いいか、ここはお前のような卑しい男が出入りしていい家ではない。それに、お前のような自堕落な男に貸す金はない。わかったら、二度と姿を見せるな!」
 航はコータを踏みつけていた足を外すと、薫子の静止も聞かずに使用人に命じてコータを家の敷地の外へと追い出させた。


 黒く高い門を見上げながら、コータは血のつながった父ならば、自分の話を聞いてくれるかもしれないと心のどこかで期待していたことに気付き、そしてその期待が無残にも打ち砕かれ、自分には頼るべき身内もない、天涯孤独なのだと、父がいるなどという夢を見た自分が愚かだったのだと、自分に言い聞かせるようにして渡瀬の家を後にした。

☆☆☆

< 129 / 155 >

この作品をシェア

pagetop