君のいた時を愛して~ I Love You ~
「クリスマス、二人でどっか美味しいもの食べに行こうか?」
 サチの言葉に、俺は驚いて顔を上げた。
 サチは名ばかりの台所で夕飯の支度をしているところで、部屋の中はあちこち鍋や調理待ちの食材で溢れているので、俺は大人しくベッドに寄りかかってうとうとしていた。
 スーパーでは散々クリスマス商戦に合わせた飾り付けや、商品の陳列をしているのに、自分自身が実際にクリスマスを祝おうという考えを持っていなかったので、俺はサチの言葉に本当に驚いていた。
 サチはと言えば、定食屋の人気者で、これまで長続きしなかった小女子(こうなご)の最長勤務記録を更新できそうな勢いで活躍している。
 先日、俺のサポートを終えたサチは、小女子(こうなご)として独り立ちすることになり、大将が小女子(こうなご)の湯呑を注文すると話していたくらいだ。
 それと同時に、サチには昼だけでなく、夜の部でも働かないかという大将からのオファーが何度となくあったようだが、サチは一貫して夜は働けないと断っている。
「ほら、クリスマス前にあたしのお給料が出るから、コータと一緒に何か美味しいもの食べに行きたいなって思っただけなんだ。でも、コータが嫌だったら、行かなくていいよ」
 クリスマス。美月と別れて以来、存在すら忘れていた。
 カレンダーの日付の色は赤くないし、俺の仕事にクリスマスだから休みという物もない。ただ、クリスマスが終わると、一気に正月用品に陳列を変える必要があり、ただ体力がいつも以上に要る時期だという認識しかない。
「やっぱり、恋人じゃないあたしと二人でクリスマス・ディナーなんて、嫌だよね」
 サチは自虐的に言うと、笑って見せた。
「別に嫌なんじゃないんだ。ただ、クリスマスなんて、もう何年も忘れてたから・・・・・・」
 俺の言葉に、サチが再び俺の方を向く。
「そうだな、サチも働いてるし。二人で割り勘ディナー行くか」
 俺が言うと、サチが嫌そうな顔をした。
「やだ。割り勘なんて」
 サチの言葉に俺が狼狽える。
「いや、いくらなんでも、俺には二人分は無理だよ」
 俺が正直に言うと、サチが笑って見せた。
「コータのバカ。あたしがご馳走するって言ってるの」
「いや、クリスマスに、女性がご馳走って変だろう」
 美月とのクリスマスでは、全額俺が払っていたので、思わず俺が答えると、サチは頭を横に振った。
「そんなことないよ。夫婦ですって顔をすればいいんだから」
「えっ?」
 サチの言いたいことが分からず、俺はキョトンとした顔をする。
「だからね、恋人同士だと、男が払わないと変な感じがするでしょ。でも、結婚してると、財布を握っているのは奥さんだから、会計は奥さんの担当。だから、あたしが払ってもおかしくないってわけ」
 はぁ。確かに、言われてみればそうかもしれない。でも、夫婦みたいなふりってどうするんだ?
「サチ、結婚したことあるのか?」
 俺の質問に、サチが目を剥く。
「コータのバカ、バカ、バカ。結婚したことあるわけないじゃない!」
 サチはそれっきり背中を向けて振り向かなかった。
「ごめん、サチ。ちょっと、聞いてみただけだよ。だって、夫婦だったら奥さんが払うとか、良く知っているみたいだったからさ」
 俺が謝ると、サチは『もういいよ』とだけ言って料理を続けた。


 よほどサチの気分を害してしまったようで、結局、食事の間もクリスマスの話も、ディナーの話も出ることはなく、俺はサチが作ってくれる美味しい夕飯をありがたく享受した。
 片づけをして、いつものように二人並んで銭湯まで歩く。
 サチが来てからの毎日は、とても充実していた。でも、俺はそれになじめない自分を持て余していた。
「サチ、大将はサチに夜も働いてほしいって言ってるんだろ。夜も働いたら、一人でワンルームの部屋借りて、悠々自適に暮らせるんじゃないか?」
 別に、サチに出て行って欲しいわけじゃない。でも、サチがいつまで一緒に居るのかわからないまま、ずるずるといつサチを失うのかを考えながら過ごす日々が苦痛だった。
「コータは、あたしに出て行って欲しいんだね」
 サチが寂しそうに言った。
 違う。出て行って欲しいわけじゃない。すぐにそう言いたいのに、俺の中の何かがそれを妨げる。
「あたしも、コータみたいに別のバイト探すよ。そうしたら、出て行くから」
 俺の言葉は詰まったままで、何も言えない俺に背を向けているサチのその背中は、まるで捨てられた子犬のように寂しそうで儚げだった。
 その姿を見ても、鉛で塞がれたような俺の喉からは、一言も声が出ない。
 サチが泣いている。
 背中を見るだけで俺にはわかる。
 サチは、俺に知られないように、声も上げず、静かに涙を流して泣いている。
 俺の腕がサチを背中から抱きしめた。
「コータ?」
 サチが驚いたような声をあげる。
 夜風に冷えた体がお互いの体温で少しだけ温まる。
「コータ、あたし、ずっとコータの傍に居て良い?」
 サチの問いに、答えたくても言葉はまだ出てこない。
 いつしか、俺の両目からも静かに涙が流れ、頬を伝った涙がサチの首筋に落ちる。サチの涙が俺の腕に落ちるように。
「あたし、コータとずっと一緒に居てもいいのかな?」
 サチの問いに、俺は無言で頷き、その度に俺の頭が軽くサチの頭に触れる。
「コータ、泣いてるの?」
 サチの言葉に、俺は再び無言で頷く。
「なんでコータが泣くの?」
 サチに問われても、俺には答えることができなかった。言葉が出てこないのもそうだし、なぜ自分が泣いているのか、正直自分でも分からなかった。
「ねえ、コータ。あたし、コータの事、大好きだよ」
 それは、初めて聞くサチの個人的な俺に対する気持ちだった。
 今まで、ずっと俺たちは互いに相手に対する感情を口にするのを控えていた。いや、もしかしたら、控えていたのは俺だけだったのかもしれないけれど、少なくとも今までサチから告白されたことはなかった。
「コータ、愛してる」
 サチは手に持っていたマイ洗面器とその中に入っていたお風呂セットの入ったポーチから手を放し、俺の腕にその手を添えた。
 俺はサチを抱く腕に力を込めたが、俺の気持ちは言葉にはならなかった。
「コータは、あたしのこと好き?」
 俺がコクリと頷く。
「コータは、あたしのこと愛してる?」
 サチの『愛してる』という言葉に、俺の体が動かなくなる。のどに詰まった言葉と同じように、身体も自分の自由にならなくなる。
 ああそうだ、俺は、美月にも一度も『愛してる』と言ったことがなかったんだ。いつも、美月が俺に愛しているかと問いかけ、俺は『もちろん』とか『決まってるだろ』とか、そうやって自分の感情を自分の言葉で表現したことがなかったんだ。
 気が付いた瞬間、俺の体は石でできているかのように重く、まったく俺の意志を受け付けなくなった。
 いや、もしかしたら、この問いに答えたくないというのが、俺の本当の気持ちなのかもしれない。ここで、美月の時と同じように応えてしまったら、サチと俺の関係も美月と俺の関係のようになってしまうような気がしているから・・・・・・。
「答えなくていいよ、コータ。コータが私を好きでいてくれることは分かったから。別に、愛されていなくても、好きでいてくれれば、私はそれで幸せだよ」
 既に泣き止んでいるサチが微かにほほ笑む気配がする。
「ほら、コータ、早くお風呂に行こう」
 立ち止まっていた俺とサチの体は、触れ合っていない部分から冬の寒さに侵食され、温かいのは触れ合っている部分だけになっていた。
「コータが風邪ひいたら大変だからね」
 サチは言うと、俺の腕から手を離した。
 俺はサチにされるまま腕を解き、サチは放り出した洗面器とポーチを拾い上げた。
「さあ、行こう」
 サチの言葉に促され、やっと俺の体が動くようになり、俺とサチは銭湯の暖簾の前でいつものように男風呂と女風呂に分かれて銭湯の奥へと入っていった。
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