君のいた時を愛して~ I Love You ~
二十六
 大将の店に顔を出すと、いつもの仲間が心配そうにあたしの事を見つめた。
「小女子、まだ顔色悪いぞ」
 あたしの顔を見た大将の最初の言葉に、ますますみんながあたしの事を心配げに見つめた。
「大丈夫です。もう熱も下がりましたし、元気ですよ!」
 あたしは精一杯の笑顔を浮かべ、ロッカールームに荷物を置くと、『小女子』と書かれたTシャツ姿になり、開店前の店の準備を始めた。
 箸の数、調味料の量、椅子の位置、テーブルの位置、夜の営業が遅くまでな事もあり、簡単な掃除は夜のメンバーが行ってくれるが、きちんとした掃除は昼のメンバーの仕事で、もちろん、こういった細かいチェックは昼のメンバーが行い、昼の後、夜に合わせた変更も昼のメンバーだが、そのへんはあたしのようなパートではなく、厨房の板前修業をしているスタッフが担当になっているので、あたしがやるのは、あくまでも最終チェックだけだ。
 最終チェックが終わると、あたしは『小女子』と書かれた湯飲みの準備を始める。あたしが見て回るお客様のための湯飲みで、コータが退職してから、大活躍した『鰆』の湯飲みは引き継ぐスタッフが雇われないこともあり、店の奥にしまわれている。
「暖簾出します」
 戦闘開始準備を告げる先輩の言葉に、あたしはとりあえず十人分のお茶を用意した。
 最初は、お客様が来てからお茶を入れていたのだけれど、コータから飲みやすい温度にしておかないと、お客の回転が悪くなると教えてもらったので、最近は暖簾が出た時点でとりあえず十人分を用意するようにしてる。
 店に置かれた時計の音がやけに大きく聞こえ、ランチタイムの始まる十一時半にカチリと針が動く音が響くような気がした瞬間、ガラリと音を立ててドアーが開いた。
「いらっしゃいませ」
 全員が並んで開店を待っていてくれたお客様に声をかけるから、あたしも負けずに声を出す。
 先輩方から順番にお客様を席に案内していくのに続き、あたしも四人連れのお客様を自分の担当テーブルに案内した。
「すぐ、お茶をお持ちします」
 お客様が注文を考えている間に、素早く湯飲みをお客様の前に置いた。
「俺は、おすすめ」
「焼き魚定食」
「煮魚ね」
「自分もお勧めにするわ」
 常連のお客様だから、注文を決めるのも早い。
「おすすめ定食が二つ、煮魚と焼き魚が一つずつでよろしいですね?」
 あたしは復唱し、お客様が頷くの確認すると、踵を返して厨房にオーダーを伝え、すぐに次のお客様をテーブルに案内する。
 大将の決めたルールで、担当席がいっぱいでない限り、先輩方から順番にお客様を席に案内することによって、回転を良くしているので、あたしが次のお客様を案内するまでに並んでいたお客様は先輩たちが既にさばいてくれているから、お客様をすごく待たせる心配がなくて少しだけホッとする。
「お一人様ですね、こちらにお席にどうぞ」
 あたしがお客様を案内すると、『焼き魚』と常連さんは座る前に注文を伝えてきた。
「焼き魚、かしこまりました。ただ今、お茶をお持ちします」
 あたしは厨房にオーダーを伝え、先輩方の湯飲みと自分の湯飲みにお茶を注いでからお客様のところに取って返した。
 次のお客様を案内しようとしたところで、厨房から最初の四人連れのお客様のオーダーが上がったという声が聞こえた。
 あたしはとりあえず、三人連れのお客様を席に案内してから、出来上がった定食を取りに行く。四人分となると、あたしの力ではおすすめが入ると、どうしても三回に分けて運ばなくてはならないから、その分お客様をお待たせすることになる。
「とりあえず、煮魚と焼き魚ね」
 受け取り口で渡される二つの定食を両手にもち、テーブルまで運ぶと、次にお勧めをうけとり、二往復した。それから、慌てて三人連れのお客様にお茶を出し、続けて注文をうける。
 そして厨房にオーダーを伝え、焼き魚定食を運ぶ。
 毎日の事だけれど、お客様の回転が速くなると、ほとんど神経衰弱になってくる。理由は、お客様が席を立つまでに、会計用の注文札を書いてレジに届けなくてはいけないからだ。しかし、とても開店からの怒涛のお客さばきの間は、札とあたしたちが呼ぶ注文票を書いている暇はない。
 とりあえず、満席になったところで、記憶をたどりながら、お客様の前に置かれた皿を見ながら札を書いていく。
 あたしの書いた札に間違いがあれば、レジを担当するスタッフが文句をいわれ、迷惑をかけることになる。あたしは、必死に札を書いてはレジに置いた。
 食事をしているお客様のところに札を置かないのは、大将のポリシーだとコータは教えてくれた。もし札を上役や取引先の人の前に置かれたら、一緒に食事に来た人たちの間に緊張が走ったり、困惑したりすることがあるからだとか、あたしにはよくわからないけれど、とにかく札にはしっかりと席番号、担当者、そして注文内容をきちんと書く必要がある。
「小女子ちゃん、大丈夫?」
 札をレジに並べていると、先輩が声をかけてきた。
「えっ?」
 この怒涛のランチタイムに私語を交わすことは極めて珍しいから、あたしは驚いて先輩の事を見上げた。
「すごく顔色悪いけど、まだ、具合悪いんじゃないの?」
 先輩の言葉にドキリとしたが、あたしは何とか笑顔でごまかした。
「大丈夫ですよ!」
 そして、それ以上何も言われないうちにお茶汲みに戻った。
 最後の一時間は、病み上がりの体には確かに厳しい一時間だった。両手に定食を持つだけで、何だが腰が痛いような気までしてきた。それでも、あたしは頑張って目の回るような時間をなんとか働き通した。
 暖簾がしまわれ、最後のお客さんが帰っていくと、スタッフ全員がホッとするのが分かった。
「小女子ちゃん、先にあがっていいよ」
 先輩の好意に甘え、あたしは奥に下がると用意された賄いを戴いた。
 いつもの事だけど、大将の店の賄いは美味しい。自然と疲れの露わな顔が笑顔になって行く。
「今日も、美味しいです」
 あたしが笑顔で言うと、厨房の見習いさんが嬉しそうに微笑み返してくれた。
 あたしはゆっくりと賄いを味わって食べると、一足先にロッカールームで着替えた。
「じゃあ、お先に失礼します」
 まだ賄いを食べている先輩方に挨拶し、大将にも挨拶してから店を後にした。


 店を出たあたしは、バス停でバスを待ちながら鏡を取り出した。
 鏡に映るあたしの顔は、蒼くて、疲れた表情をしていた。
 もちろん、目の回る忙しさだったわけだし、疲れていてもおかしくないし、少し顔色が悪くてもおかしくはない。でも、今まではそんなことは一度もなかった。
 鏡をしまうと、あたしはちょうど来たバスに乗り、部屋の最寄りのバス停ではなく、一つ先のドラッグストアに近いバス停で降りた。
 仕事を続けるなら、これ以上みんなに心配をかけるわけにはいかない。
 ドラッグストアに入ると、あたしは家を出てから近寄りもしなかった化粧品売り場に足を運んだ。色とりどりのカラフルな箱から、地味でシックな包装まで、色々な種類の化粧品が並んでいる。
 あたしはシミが隠せると書いてある化粧品をいくつか手に取り、健康そうな色で一番安い物を選ぶと、その化粧品専用のクレンジングも合わせて買うことにした。
 レジでお金を払い、今日の夕飯を考えながら、あたしはゆっくりと家路についた。
 さすがに、病み上がりの初日は疲れて、そのままスーパーに買い物に行こうという気持ちにもならなかった。

☆☆☆

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