黎明センチメンタル
「まだ誰も来てない」
朝九時半。シャッターが降りた店の入口に立って今の状況を意味も無く口に出してみる。
当たり前だが返事は無いし、急に暑さが増した気もした。
「早過ぎ」
三十度超えの暑さとは真反対を少し冷めた声がして顔を向ければ、眠たそうな目をした山科さんが鍵を手に立っていた。
「おはようございます!よろしくお願いします」
「ねぇ、朝からそんな元気いらない」
鬱陶しそうに眉をひそめて私の脇を通り抜け、聞こえるか聞こえないかの境目程の声で、こっち、と言った。
「従業員出入口こっちだから」
そう言って鍵を開け、さっさと中に入る背中は何処か刺々しくて、昨日の私の心を揺すぶった山科さんは何処にもいない。
そんな言葉にしにくい感情を撫で回す私などお構い無しに事務所へ入った山科さん。
慌てて追い掛け、扉を開けて事務所へ滑り込むと、真っ白なタイムカードを押し付けられた。
「ペン持ってる?名前。書いて」
弾かれたように鞄からペンを取り出し、名前を書いた。
「日下、加歩って言うんだ」
その声に顔を上げると、既にエプロンを身に纏い煙草を咥えた山科さんが興味無さげにタイムカードを覗き込んでいた。
「……言いにくい名前ですよね。くさか かほ。【か】が続いてるから。煙草吸うんですね」
初めてコミュニケーションが出来た。
小さな達成感に浸りまた早口で話すと山科さんが小さく笑った。
「良いじゃん、可愛い名前で。煙草嫌い?」
「煙草、好きです。名前は、変です」
真っ白のタイムカードを、ぎゅう、と握り答えると何かを投げられた。
「じゃあその変な名前、名札に書きな。書籍の朝は忙しいから、ちんたらしてたらレジ入れないよ」
折り目が沢山ついた新しいエプロン。
初めて可愛いと言われた、私の名前を書いた名札を胸に付け感じた煙草の香りは少し目に染みる。