ブロンドの医者とニートな医者

大河原先生

 とりあえずコース料理は一通り食べたが、二次会に行きたがる2人を置いて、奏はそのまま帰路についた。

 一応、場の空気は退社した時と同じくらい元に戻っていたが、更に酒を足してあの2人と同じ事を話す気はない。

 会社を通り過ぎ、いつものパン屋の前にさしかかる。

 まだ21時半だ。ひょっとして、いるかもしれない。

 そう期待しながら歩いていたせいで、幻覚を見た。

「……」

 ような気がしただけで、その人物はあのベンチに腰掛け、タバコをふかしていた。

「大河原先生……」

 駆け寄りながら、呼んだが、実際彼がこちらを見たのは、

「え、大河原先生ですよね?」

と、真横に立って、顔を覗き込んだ後だった。

「そうだよ」

 小さく答える。

 機嫌が悪いのかなと思ったが、小さく笑んでいる。大河原は、携帯用の灰皿にタバコを押し付けた。

「今は、休憩中ですか?」

「そんなとこ」

 最後の煙が口と鼻から吐き出される。

「……また、電話がかかってきたら戻るんですか?」

「そ」

  思い出したのか、ジャージのポケットからスマホを取り出して画面を確認した。21時34分と出ている。

「……あの……隣、座ってもいいですか?」

 思い切って、提案し、酒のせいだと自分に言い聞かせる。

「……いんじゃない? 俺のじゃないし」

 大河原はすぐに視線を逸らすと、スマホが入っていたのとは反対側のポケットから煙草のケースを取り出し、一本出して、慣れた手つきで火をつけた。

 息を吸い、吐く音がする。

「あの、大河原先生に全然関係ない話、してもいいですか?」

「……どゆこと?」

 大河原は、眉間に皺を寄せてこちらを向いて聞いてくる。

「いえそのっ! その……その、私の彼氏、お医者さんなんですけど、さっきみんなにすっごい否定されて……なんか、お医者さんって本当はどういうものなんだろうなーって思ったんです」

「……」

 彼は、長くなった灰を、指で弾いてベンチの下に捨てた。大河原は組んだ足の膝の上に手を置き、そこから煙が反対方向に揺れていっている。

「例えば、緊急で手術が入っりするじゃないですか。それって本当なのって、私は全然疑ったことないんですけど……」

「…………」

「どう思います?」

「何が?」

 彼はこちらの目を見たが、あまり興味がないらしい。ちょっと面倒臭そうに答えられたが、思い切って続けた。

「お医者さんって、人気あるじゃないですか。みんなが彼氏にしたいって思ってるし」

「……へぇー……」

「でも、何がいいんだろうって思うんです」

「……ふっ」

 大河原は小さく笑った。

「いやあの、大河原先生のことを言ってるんじゃないですけど」

「…………」
 大河原は、どうでもよさそうな顔にすぐに戻ると、タバコを口につける。

 ここまで言いかけてやめると、何の会話にもならないので、奏は思い切って全容を話した。

「なんか、その……。私の彼氏、帝東医大の脳外科のお医者さんなんです。しかもイギリス人なんです。それをさっき会社の人に聞かれたから仕方なく言ったのに、絶対遊ばれてるって言われて。

 いやでも、私は別にそれがたとえ遊びでもなんでもいいってゆーか。別に私は結婚したいとか一生いたいとか思ってるわけじゃないのに、なんでそんなこと言われないといけないのか、腹が立って! ……」

 それでも、大河原はどんな顔もしない。

「だから……、同じ医者の大河原先生はどう思うのかなーって思ったんです。きっと彼女もいるだろうし」

 最後の付けたしは、言っておかないと話が繋がらないと思ったので出しただけだ。

「……」

 それでも、大河原は何も言わない。

「……何も思いませんよね、そんなこと」

「………ご名答」

 ですよね……。

「……そうですよね……」

 単なる独り言で終わってしまう。

 私は、大河原に何を言ってほしかったんだろう、と思う。

「あ、そうだ。私の会社の先輩の彼氏が都立病院の先生だって言ってたんですけど、大河原先生じゃ……」

 なさそうだ、顔がびくともしない。

「ないですよね……お医者さんなんていっぱいいるし」

「……」 

 三度、スマホがバイブレーションし始めた。奏は溜息を吐いて、立ち上がる。

 大河原は、いつものように簡単にカタカナの専門用語などをを2、3話すとすぐに電話を切り、立ち上がった。

「……もし」

 一歩進みだした大河原は、止まってこちらを見る。

「もし、ここで彼女が行かないでって言ったら、どうします?」

「…………」

 ふい、とそのまま行ってしまう。

 だろうなあと思う。

 それが医者の務めだと思う。

 横断歩道は信号待ちだ。彼はまだ立ち止まっている。

 奏は駆け寄ると、

「先生……」

 と、言いながら、膝を崩した。






 意識はずっとあった。

 膝が折れる瞬間抱きとめてくれて、

「あー……酔ってんのか」

 と、言いながら、さっと膝を抱きかかえ、横断歩道を渡り、夜間窓口を通っている間も。

「えっ?」

 警備員の男の人が驚いている声がちゃんと聞こえる。

「単なる酔っ払い。そこで拾った」

「えっと、えー……」

「処置室で寝かしといて。誰かあいてるだろ」

「あ、はい。看護婦さん、看護婦さん…」

 そのまま、少し歩いた先のベッドらしきところに優しく寝かされる。

 その、医者としての表情がいつもと全く違っていると思いながらも、胃のところで何かがつかえてなかなか声が出ない。

 一息つく間もなく、

「大河原先生、急患です!心臓動脈瘤破裂の可能性の患者さん、5分後に到着します!」

 少し離れたところから大きな声がした。

「…向井の奴たたき起こして来てくれる? 俺が急患持つから」

 声は聞こえないくらい小さくなっていく。

「……起きますかね……」

「起きなきゃ第3オペ室の患者、死んじゃうよ」







「……奏……愛子」

 その声で目が覚めた。

 驚くほど寝覚めがいい。

「……」

 まず、慣れない天井に続いて、毛布を見た。病室ではない。ただの処置室のままだ。

「え……」

 大河原が、上下揃いの紺色の服を着て、丸椅子に腰かけている。肩には、Kitadaiuniversity hospitalとネームも入っているし、首から下げているピッチもそれらしい。

「…………本当にお医者さんだったんですか……」

 奏は、ようやく確信して、納得した。しかし、大河原の表情はいつものパン屋のものだ。

「偽物が紛れ込んでても誰も気づかないと思うけどね。…一応胸の音聞いとく」

 布団をめくり、胸に聴診器を当てられる。

 上着は脱がせてくれたようだ。中のブラウスだけになっている。

「はい、酔っ払い」

 簡単に診察結果が出る。

「……すみません、覚えてはいるんですけど、途中で寝てしまって……」

 起き上がってみる。全然どうということはない。むしろ、いつもよりすっきりしているくらいだ。

「適当に帰っていいから」

「今何時ですか?」

 大河原は、いつものジャージではない、紺色のズボンのポケットからスマホを取り出すと、

「……3時半」

「3時半!? ……今すぐ帰ります」

 酔っ払いで入院なんて、なんて恥ずかしい。

 奏は、頭を抱えてから、ふっと一息吐くと、「帰ります」と、足元の毛布をはぐった。

「そんな飲んでないんだけどなあ…」

「…にしてはえらく絡んできたけど」

「え、そんなことなかったでしょ!? 少なくとも、そんなつもりはなかったですよ?」


 大河原は少し笑いながら、首を傾げる。

 奏もベッドから降り立って、歩けることを確認した。全然どうもない。

「あ、ここまで運んできていただいて、ありがとうございました」

「……」

 大河原は慣れているのだろう。当然とでもいうように、無表情ですぐに目をそらす。

「あ……お礼させてください、今度」

「……」

 大河原は顔ごと逸らして、頭を掻いた。外科医なら、普段封筒くらい簡単にもらっているはずだし、それが規制されているということはないだろう。

「えっとじゃあ……、パン屋さんで」

 何十万もお礼をもらっているであろう医者に、パン屋のパンとは自分で言っておかしかったが、大河原は数回適当に頭を縦に降って頷いた。
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