ブロンドの医者とニートな医者
翌日、律子と莉那のことはいつも通り適当にやり過ごし、21時半にパン屋に行くことだけを目的に仕事を終え、残業をしてから退社した。
大河原と、カフェの席で30分間だけ話をしよう。
何を話そう。まず、病院では何科なのか、どんな論文を書いているのか。それから、何歳なのか、どこ出身なのか。色々、聞きたいことが耐えない。
それで、カフェでお礼を言ってから、どうしよう。
そのまま、別れたらまあ、時々パン屋の前では会えるかもしれないけど、できたら連絡先を聞きたい。
少し食事をしたり、色々な話をしてみたい。
その欲が抑えきれず、遠目でベンチを見たとき、誰もいなかったのでかなり不安に思ったが、とりあえず中に入るとすぐ座った姿が目に入った。
いつもと違う、白いティシャツにジャケットを着ている。下は紺っぽいズボンで、靴も履いている。
デート気分できれいな服を着てくれたんだと思うと、一気に嬉しくなったが、その、隣の人物も同時に目に入った。
カフェの席で、腰掛けているその女性。
「…………」
外科医、大河原 淳は、約束した場所で暗黙の了解の時間に、席についてくれていた。
だが、その隣には、エンジ色の上下服の上にグレーの薄手のパーカーを羽織った明らかなナー
スが同席していた。
「………」
こちらを見ずとも、微笑を浮かべている大河原と、視線を合わせられないほどにこちらを睨んでいるナース。
突然、自分に彼氏がいることを目の前に叩きつけられた気がした。
あまりにも近寄りがたく、1メートル手前で足が止まってしまう。
それでも、大河原は助け船を出さず、むしろ楽しむように笑みを崩さない。
睨んでいたナースは、こちらを睨みつけながらも、席を立ち、全身舐めまわすように見た後で、テイクアウトコーナーへ歩いていく。そこで、飲み物を買って席に戻るんだろうと思ったが、予想外にナースは外へ出た。
「………」
ほっとしてよいのかどうか。もしかして、電話でも入ったのではないか。
「………」
再び大河原に視線を戻すと、ようやく彼はこちらを見ていた。しかも、えらく微笑んでいる。
「な、なんでしょう…」
それ以外の言葉が思い浮かばなかった。
「何って……、お礼っていうからわざわざ来たんだけど」
彼は、テーブルに視線を戻してから、おもむろにこちらを見た。
「……」
そうだ。そうだが、さっきのナースが……。奏は再びドアの方を見たが、見える範囲には誰もいな
い。
ようやく、残り1メートルを詰め、
「…座ってもいいですか?」
と、尋ねてみる。
「座りたきゃ座ればいいじゃん」
彼は全くもっておかしそうに、言い捨てた。
「……」
酷くバカにされたような気がして、座る気になれなくなってしまう。
「早くパン食わないと、閉店時間過ぎちゃうよ」
何が楽しいのか、さっぱりだ。今の彼女に、さっさとお礼されて、帰っておいでと言われているに違いないのに。
ナースは随分睨んでいた。
でもまあ、自分にも非がある。心の中には、ただのお礼ではない、下心があった……。
「……」
黙って微動だにしないこちらに見切りをつけたのか、大河原は、つと立ち上がり椅子を半分しまう。
何か、言われるかもしれない。そんな予感がして、きゅっと唇を結んで俯く。
「飯行くか……」
軽い、軽い宙に浮いて消えてしまいそうな一言をさらりと言って、外に出てしまう。
さすがに独り言だと思う。
多分、彼女が怒ってるから、そういう親密な関係みたいにするのはやめてほしい、ということなんだと思う。
彼はどんどん歩いて、何も買わずに外に出てしまう。
だけど、ドアの外には彼が立っているのが見える。
明らかに、こちらを待っているような気がする。
奏は、大きく深呼吸してから、思い切って店を出た。
重いガラスのドアの向こうには、タバコをふかしている大河原の姿があった。
「……」
何も言わずに、歩き始める。
ついて行くべきなのかどうか迷ったが、違ったならそれまでだと、黙って後に続く。
「……」
50メートルほど歩き、大通りに出ると、大河原は片手を挙げた。どうやらタクシーを拾うつもりのようだ。
飯に行くか、という一言が今更になって鮮明に思い出される。
タクシーは簡単に停まると、大河原はすぐに乗り込んだ。
そして、中からこちらを見上げて声を出す。
「飯」
奏は、ハッとして足を動かせ、急いでタクシーに乗り込んだ。
「運転手さん、リッツカールトンまで」
「はい」
リッツカールトン!? いや、そこで飯のはずはない。そこの近くのラーメン屋とかそういうことで、目印が分かりやすい方を運転手には伝えるものだ。
「……」
窓の外を見ている大河原を横目で見る。
「!」
もしかして、リッツカールトンで食事のお礼をしてもらいたいとかそういうことで、支払いは自分ではないのだろうか。
「………」
だとしたら、最悪だ……カードで支払えるけれど、何万円もかかるに違いない。絶対さっきのナースの入知恵だ。
無言の社内は10分ほど続き、最後に
「中のエントランスまで入りますか?」
の運転手の質問に
「はい」
と簡単に、大河原が答え、2人はリッツカールトンの正面入り口の前に降り立った。
「……」
無言で大河原は進む。ここまで来たら、食事を楽しもうじゃないの!と奏は決め込み、彼について、エレベーターを上がり、レストラン階に進んだ。
行きついた先は、ステーキ専門店だった。まさか、すごい肉とか頼まないだろうなと怖くなったが仕方なく大河原に続く。
「ご予約のお客様でおられますか?」
店員の問いに
「大河原です」
と、抑揚なしに答えたことに、相当驚く。
本気でここでお礼をしてもらうつもりだったんだ。
「お待ちしておりました。テーブル席にご案内いたします」
びくびくしながらも後についていき、待ち受けていた席は。見事な夜景が見下ろせる、素晴らしいテーブル席だった。席代だけでも相当なものに違いない。
2.3度高級なところに、イアンと入ったことはあるが、そこと引けを取らない素敵な席だった。
「きれい……」
夜景を見入っている間、大河原はワインと料理を注文する。その姿はどう見ても手慣れていた。
店員がいなくなるのを見計らって、
「これ……お礼、ですよね…」
聞かずにはいられなかった。
「じゃなかったら、何?」
こちらを見ずに、グラスの水を飲みながら答えられる。
「……」
お礼ってことは、通常こちらが支払いますよね……。
だがそれを聞くに聞けず、ただ沈黙になってしまう。
そのまま料理が運ばれ、ワインもきた。いくらのコース料理にしたのか知らないが、数万円はするに違いない。
ドキドキしすぎて味も分からないまま、前菜を食べる。
大河原も、黙って食べている。育ちが良いのはすぐに分かった。ナイフとフォークの扱いが違う。
しかし、いつまでも黙っているのはおかしいと、息が詰まり、奏が先に口を開いた。
「あの……」
話の内容は何も考えていない。
彼はちら、とこちらを見たが、すぐに皿に視線を戻した。
「その」
話題もない上にこの食事代をどちらが支払うのかということが、頭から消えない。
「……」
自然に手も止まった。
「……何…」
ようやく大河原は声を出す。が、おなかがすいているのか、手は止まらない。
「……何ですか。」
いつもの、言い捨てるような言いまわしだ。
「その……どうして、このお店だったのかなあと思って」
近しい言葉が口から出てきたので、少しほっとする。
「俺が食いたいから。……まずけりゃ食わなくていいけど」
言いながら、こちらの皿をじっと見つめた。
「いいいいえ、まずいとかそういうわけではないです!!」
「俺が払うから食えよ」
さらりと、今更さらりと言ってサラダの最後の一口を口に入れる。
「……そ、その。お礼といえば、通常は、その、お礼する方が支払うような……」
「じゃ払って」
「え!?」
言うんじゃなかった……。
しっかり視線を落とすと、大河原のふっとした笑い声が聞こえた。
「安月給で払えないだろ」
「、いくらですか、これ」
「5万」
「…………、ひ、一人で、ですよね?」
「食わなくても注文するだけで金かかるよ」
「知ってます!」
大河原は、再び微笑すると、ワインのボトルを傾ける。酒は強いのか、すでに2杯目だ。
「その……なんか、すみません。お礼なのに、払えなくて」
払えないことはないけど、払えないということにしておいた方がよさそうだ。
「一人で来にくい店だから」
「……」
あ、そういうお礼……。
こちらを見ない大河原をじっと見つめた。
黒い髪の毛はつややかながらも少し癖がある。肌の色は白く、伏せているまつげも長い。
「……」
食べよっかな。
奏は、気持ちを仕切りなおして、ナイフとフォークを手に取った。