人魚のいた朝に

そのことに気づきもしないで、僕はただ自分勝手な時間を過ごしていた。

「あいつだって、わかっとるだろ。お前が自分の為に頑張っとることも。ただこの前は、我儘言いたくなっただけで」

「そうだといいけど」

「そうだって」

空になったお猪口に、太一がまた日本酒を注ぐ。
青い江戸切子のグラスが、まだ夏が終わっていないことを感じさせる。

「大学院に行くことを、迷ってる」

「・・・え」

「卒業したら、あの町に戻ろうかと思って」

「は!?」

本気で驚いたらしい太一が、目を大きく見開き僕を見た。

「だけど正直まだ、その決心がつかなくて、初空に会いに行けないでいるんだ」

「いや、でもそれだとお前のこれまでの時間は何の為に、」

「初空の為だよ」

「・・・」

「今までも、これからも、僕の時間は初空の為にある。だから、あの町で一緒に暮らすことが彼女の幸せなら、それもいいのかなって」

「本当に、それでいいのか?」

「・・・初空の心が、離れて行っているのがわかるんだ」

そのことに気づけないほど、僕だって鈍くはない。

「だから、夢を捨てる?」

「初空が居ないと、始まることもなかった夢だよ」

「・・・」

人生は選択の連続だと誰かが言っていた。
突然現れる分かれ道の前で立ち止まり、ようやく進む道を決めたと思ったら、また別の分岐点が現れる。
選ぶ道がアタリだろうとハズレだろうと、僕らは何度もその分岐点の前に立ち、大小様々な選択をしなくてはいけない。
大人も子供も関係ない。どんな環境に生まれて、どんな人生を生きようと。

「人間の心も、もとに戻すことが出来ればいいのに」

「心?」

「うん。でも、色々考えてみたけど、無理だった」

「・・・」

「だからもうこれ以上、失くしたくないんだ」

彼女の中にある、僕への想いを。
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