人魚のいた朝に

僕が見た光景が、ただの悪夢なら良かったのに。

「あーおーいー」

桜が咲くには少し早い二月の朝、砂浜を歩いていた僕を呼ぶ声が届いた。
驚きのあまり躓きそうになった僕は、なんとか両足で踏ん張って、海岸沿いの道を振り返って見た。

「今、転びそうになったでしょう?」

大きな声で叫びながら、太陽みたいに笑う彼女の姿を見つけた僕は、声の出し方を忘れそうになった。

「初空!!」

だけどその後すぐに、お腹の底から声が出た。
こんなにも大きな声を出したのは、初めてかもしれない。
それくらいに、僕はこの日を待ちわびていた。

冬休みに行ったスキー旅行で、大きな事故に巻き込まれた初空は、昨日まで名古屋の病院に入院していた。
キラキラと光る雪が、彼女の頭から流れた血で赤く染まったあの日、初空は近くの病院に運ばれた。おじさんとおばさん、初空のお兄さんと僕の両親に兄たちも必死に彼女の名前を呼んだ。
だけど初空はピクリとも動かなくて、僕は怖くて声も出せなくなった。
病院に着くなり手術は始まり、何時間もの間、僕はこの世の終わりを見ている気分だった。
結局、初空の顔を見られたのは翌日のことだった。
ガラスの向こうに見えるベッドの上で、初空は沢山の管を付けられながら、ただ眠っていた。ベッドの横に置かれたモニターの数値だけが、彼女が生きていることを教えてくれる。
まだ安心できないのだと、おじさんが僕の両親に話していた。
それから、意識が戻った後も後遺症が残るかもしれないと。
こんな時なのに、おじさんは僕らに「せっかくの冬休みなのに、ごめんな」と謝っていた。だから僕も兄たちも、必死で首を横に振った。
三人とも昨日から泣き過ぎて、酷い顔をしていた。
難しい話は僕にはわからないし、これから初空がどうなるのかもわからない。
だけど、彼女が生きていたことがただ嬉しくて、ガラスの向こうの初空を見つめながら、僕はまた泣いた。

その翌日、目覚めない初空を残したまま、僕らは母と一緒に福井に帰ることになった。
医師である父は、初空の両親にもう少しだけ付き添うと言って残った。後から知ったのは、その時には既にもっと大きな病院に移る話が出ていたらしい。
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