隠れクール上司~その素顔は君には見せはしない~1

先輩の彼氏は絶対に既婚者だ。


 中津川 沙衣吏(なかつがわ さいり)の彼氏は、絶対に既婚者だ。

 そう言い切るのにはそれなりの自信がもちろんある。

 一度だけちらと見たけど、スーツ姿であまり若そうではなかった。

 次に、それを私が偶然見たと話した時から、沙衣吏の態度が大きく変わった。とにかく気を遣い、話しかけてくるようになった。

 そして、見たことは絶対に誰にも言わないで、と念を押されている。

 以上、この3点から、相手が人に言えない人物であるという推測が成り立つ。

 しかも、もしかして、ひょっとして、本社の人とか……。

 29歳で仕事ができ、美人の沙衣吏を好き勝手している幹部がいる説は十分成り立つ。


 本日、9月に入り、8月から失速し始めてきた売り上げが更に落ちていくのを感じながら、関 美生(せき みお)はいつも通り、業務を遂行していた。

 東都シティ本店は、家電のみを扱う高級指向の専門店、ホームエレクトロニクスの中でも中枢ともいえる店舗であり、中央区に広大な土地を構え、精鋭ばかりを集めた選ばれし者のみが勤務できる店……だという事はよく言われているそうだが、実際入社して研修でこの店を訪れてから4年間ここでしか勤務したことがない美生にとって、それが本当なのかどうかは全くの噂でしか知らなかった。

 たまに、他店舗に応援に行くこともある。確かに、そこでのレベルは人によっては低いように感じるが、それは東都シティでも同じだと思うし、大袈裟に言うほどのことではあるまい。

 カウンターから広い1階のフロアを見るのももう4年目。店長 関 一(せき はじめ)のことを想い続けては2年にもなる。

 耳のイヤホンからは、業務内容がずっと飛び交っているが、関の声は一切聞こえない。トランシーバーをつけてはいるが、基本的にはそれで指示するのは嫌いだという。

 そういう情報も自分ではなかなか手に入れられないので、せっかく沙衣吏と仲良くなったので、さりげなく聞いてみたり、4年間ずっと一緒に仕事をしている八雲(やくも)部門長にそれとなく探りを入れてみたりしている。

 目の前を関が通る。もちろん、できるだけ自然に、目で追う。

 関は、同じ苗字だが、親戚でもなんでもない。よく、取引先メーカーの人から夫婦ですかと聞かれるが、そんなまさか、と言うのももう慣れたし、聞いて来る人も最近では少なくなった。

 大物独身と言われているが、それは間違いなく、あの優しい笑顔、落ち着いた低い声、人を仕事に向かわせる穏やかな言葉、人を嫌にさせない管理体制に、芯を貫く営業努力。

 元は本社でキレキレの営業マンだったらしいが、色々あって現場に降りてきたらしい。

 それでも、人当たりの良さと、何よりその、整った顔立ちと、180センチの長身が、我こそは!と香水を振りまき、近寄ろうとする女子達をさらに増やしている。

 なんでも、制服のワイシャツの背中に皺が出来ていたから、アイロンを当てましょうかと言った女がいたそうだ。

 さすがに苦笑して断ったそうだが、私も、負けてはいられない!とは、思う……。

 思うが実際は、仕事以上のことは何も感じてくれてはいないということは充分に感じている。

 ボーナス査定の面談の時、年2回だけ店長室で2人きりで話をするが、それももちろん業務内容のことのみだし、むしろ、その日褒めてもらうために残りの半年があるようなもので、実際は面談以外では、最後にいつ話したかどうかも分からないくらいだった。

「湊(みなと)部長が来てるらしいよ」

「え?」

 小声の沙衣吏の声に、目が覚める。

 商談が1つ終わり、客を出口まで送り届けた帰りのようだが、その視線の先には、営業部長の湊 航平(みなと こうへい)の姿があった。

「あぁ……久しぶり!!」

 彼は言いながら、こちらに近づいてくる。

「お、お久しぶりです」

 一時は義兄になろうとした近しい人に、こんな公の場で話しかけられると、ぎこちなくなってしまう。

「え、知り合い?」

 沙衣吏は相当驚いた顔で、前を見たまま聞いた少しだけ口元を動かした。

「…ちょっと」


 もちろん、そのやりとりは本人には聞こえていない。

「あれ? いつぶり?  時々僕はここに来てるんだけど」

 航平は穏やかな顔でカウンターに手をつく。

「えーっと、えっと……」

 沙衣吏の視線が気になって、下手なことを言わないでおこうという気にしかならない。

 基本的に航平と話す時は、あえて人目を避けてきていたのだが、本人は気付いていなかったとみえる。

「そんな前だったか……。8月、いや、7月にも来たんだが」

「うーん。忘れ…ました」

 敬語が慣れず、恥かしい気持ちになる。

「今日は何時上がり?」

 えっとー。ここで誘うのはちょっとやめてほしいけど……。

「……6時……ですが」

「じゃあ、マンション近くの居酒屋行くか」

「えっと……」

 基本は『航平君』としか呼んだことがないので、会社だと呼び名に困るのだが、 

「えっと、はい」

「僕は今日泊まるから」

 航平の家の場所は詳しくは知らないが、中央区の端の方で本社に行くには30分くらいかかるらしい。

「あ、どこに…です?」

「どうするかなあ。場所は決めてないけど。明日休みだからどっか泊まるよ」

「あ、はい……」

 航平はなんとなく隣を見てから去って行ったが、3メートルも離れると沙衣吏が腕をつかんで引っ張ってきた。

「!?!?」

 普段、結構なイケメンでも動じない沙衣吏が珍しい。

 確かに、こちらも最後の大物と言われている。

 優しい笑顔、嘘のない言葉、追い詰めない指導。関と似ているが少し違うのは、管理体制などもしっかりしていて、笑顔や普段の顔まで本当に嘘偽りないという雰囲気が滲み出ているのだ。

「元彼とかじゃないよね?」

 沙衣吏の突然の詰問に吹き出しそうになる。

「まさか!!」
 
 数秒迷ったが、沙衣吏の場合はこちらが先に弱みを握っているので、

「……私の姉の元婚約者ですよ」

と、正直に答える。

「えーーーー……」

 小声で驚きながら、ようやく腕を離してくれる。

「元って何?」

 顔を近づけ、更に突き込んでくる。

「なんか、うちのお姉ちゃんが結婚するって言いだして……えっと10年くらい前の話ですけど。お姉ちゃん8つ上で」

「うん」

「だけど2週間くらい前になってやっぱやめるってなって。もう結婚式も用意してたのに」

「えー、嘘ー……」

「なんか、急に嫌になったみたいで」

「マリッジブルー?」

「さあ…なんか、サラリーマンの奥さんが嫌になったとかその時は言ってました」

 実は、航平の優柔不断さが嫌になった、と言ってはいたが余計な印象を与えてもいけない。

「えー、そんで、結婚式もやめたの?」

「そうです。キャンセル料とか全部うちが払って。さすがにお父さんもお母さんも、怒ったり泣いたりで大変だったけど、なんかお姉ちゃんは結婚しないって揺るがなくて。

 こう……湊部長も、ってなんか変だけど。その…航平君も、何度もうち来て、私も高校生だったけど、それなりにデートに協力したりとかして……そういうわけです」

「で、ここ入って再会したの?」

「はい。どこで勤めてるかとか、当時から聞くのは聞いてたんだろうとは思うんですけど、あんまり興味なかったから。ここ入ってびっくりって感じでした。

 うちのお父さんとお母さんは知ってたみたいですけど、大きい会社だから会うこともないだろうし、私が入りたいって気持ちが強かったし、私と航平君の関係は良かったしって特に言わなかったみたいです」

「へえー。それで、お姉さんは?」

 カウンターに客が来たが、静観する、と近くのスタッフに動きで合図し、代わりに仕事をしてもらう。

「お姉ちゃんは5年くらい前に、急にバツイチのアメリカ人と結婚するって言って出て行きました。今も結婚してるからうまくいってるみたいですけど」

「アメリカにいるの?」

「そう。もう、その時も大変だったんですよ。お父さんもお母さんも……」

「へー、なんか、すごい関係だね」

「うん。だからなんか……未だに航平君が独身なのが、申し訳なくて……。お姉ちゃんが結婚しただけに」

 弾みで本音が口から出た。ちら、と航平の後姿が目に入ったが、今日も1人で寝起きしてここに来たんだろう。

「………今日のその食事会は、特別なの?」

「え?」

 予想だにしない質問だが、理由がはっきりと分かったので、あえて視線を合わせなかったが、

「……」

 間が空いたので、

「……」

 視線を合わせてみる。本気だ。

「じゃないとは思いますけど……。え、どういう……」

「私、彼氏と別れたの」

 客とスタッフがカウンターを離れたので、少し声を出した。

「え゛!?」

 このタイミングで言うセリフ!?

「私、湊部長のこと、実はいいと思ってたの」

 ちちちち、ちょっと待って!!

「いや、あの! 独身だけど、彼女がいるとかいないとかは、知らないです!」

 食事をしてもいつも仕事の話に終始するので、彼女がいるかどうかは本当に知らないが、よりにもよって、沙衣吏を紹介するはめに!?!?

「食事、大丈夫かどうか、聞くだけ聞いてみて! お願い!!」

 力強いお願いに、えー……、と内心思ったが、仕方ない。そういう恋のキューピッドは嫌いではない。

「じゃあ……もうちょっとしたら私休憩なので、その時電話かメールしてみます」

「ありがと!」

 珍しく沙衣吏は上機嫌を表に出しながら去っていく。

 たいていの無駄話の最中、客が来ると、沙衣吏は必ず仕事に戻る。

 なので、本当に食事に行きたいのだろう。

 姉ではない、沙衣吏と……。

 もうまるで、自分の兄のようになってしまった航平へ軽く嫉妬のようなものを感じたが、自らがその座に収まることはあり得ないし、それなら、沙衣吏なら快く任せられるかもしれない。

 そう考えて、

「関 美生、休憩入ります」

 と、トランシーバーのマイクに向かって喋った。
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