大天使に聖なる口づけを
「いないのー?」
居間、台所、寝室と順に中をのぞきこんでみて、ようやく父の仕事部屋で、画布の前にうな垂れて座る大きな背中を見つけた。

「お父さん、ただいまー。ねぇお母さんは? ……いないの?」

弾かれたようにエミリアをふり返った父は、以前自分で描いた母の肖像画を手にしていた。
――新鋭画家の父が、これまでで一番の傑作だと胸を張り、いつもは居間の暖炉の上に飾ってある母の絵。

「エミリア……」
父の穏やかな茶色の瞳には、みるみるうちに涙が浮かんだ。

「……どうしたの?」
嫌な予感をひしひしと全身で感じながら、エミリアは尋ねた。

父はまるでため息を吐くかのように小さな声で、辛い言葉を吐きだした。
「……お母さんは故郷に帰ったんだよ……」

「……故郷?」
エミリアはぼんやりとくり返した。

父の仕事部屋は、保管してある絵が光で変色しないようにと、もともと窓を少なく造ってある。
うす暗がりの中、お互いがどこにいるかくらいならわかるが、表情まではよく見えないので、思いがけない言葉を耳にすると、何を言われたのだかよくわからない。

「そう……遠い遠い国だよ。もうここには帰ってこない……」

「お母さんが? ……もうこの家には帰ってこない……?」

ふいにエミリアの視界の中で、全ての光景がぐにゃりと歪んだ。
小さな胸がぎゅっと痛む。
木の床をしっかりと踏みしめていたはずの足からは、どんどん力が抜けていく。
< 2 / 174 >

この作品をシェア

pagetop