大天使に聖なる口づけを
(……あれは何?)

露台の後方に位置する高い塔の窓から、何かを構えている人影が見える。
その人物が手にした弓のようなものが、大きくたわみ、王子の背中に狙いをつけていると感じた瞬間、エミリアは人ごみをかきわけて走り出していた。

「王子! 王子っ!」
叫ぶ間にも弓は大きくしなり、今にも王子の背に向かって、矢が放たれようとしている。

「いやあああっ! フェルナンド王子っ!」
エミリアが大きく息を吸いこんで、お腹の底から声を出した途端、自分でもびっくりするぐらい大きな声が出た。

しかしエミリアが本当に驚いたのは、そんなことにではなかった。
あんなに賑やかにさんざめいていた中庭の群集が、全員ピタリと動きを止めている。
仰ぎ見た塔の上では、今まさに弓を離れようとしていた矢も、不自然な状態のまま空中に留まっている。

「な……なに……?」
息を呑んでエミリアが見渡した周囲は、全ての人が、物が、時が止まったかのように静止していた。

動いているのはエミリアと、
「なんだ? いったい何が起きた?」
驚いたように露台から中庭を見下ろしているフェルナンド王子だけ。

信じられない状況に激しくうろたえながらも、エミリアは幸いなことに、王子に伝えなければならない一番大事なことを、忘れてはいなかった。

「王子っ! うしろ! うしろから弓矢で狙われていますっ!」
声を大にして叫んだエミリアの指示に従って、フェルナンド王子は背後をふり返った。

「本当だ……」
茫然自失といった状況にもかかわらず、王子は即座に腰に佩いた剣を抜き、

「忠告、ありがとう」
矢が飛んで来ようとしている方向に向かって剣を構える。

「ところでこの状況はいったい?」
うしろ姿のまま、王子が大声でエミリアに問いかけ、エミリアもまた大きな声で返事をしようとした時、ドッと沸き返るような様々な音と共に、人々に動きが戻った。
< 94 / 174 >

この作品をシェア

pagetop