God bless you!~第10話「夏休みと、その失恋」

初めて見る、その表情

途中で小雨が降り出した。
2人でバタバタ走って、とりあえず右川亭に向かう。
もう親はいないと思うけど。
いつもの大荷物。買い物袋を手伝ってやろうとしたのに、「触んじゃねぇ」とまるで泥棒を見る目で避けられた。人の親切、何だと思ってんの。
右川亭。
恐る恐る店内を窺うと、右川の父親だけが居て、山下さんと談笑中。他に客はいない。雨のせいか、外を歩いている人も少なくなった。
「ここで待ってて。予備の傘取ってくるから」と店内に入った右川の向こう、俺を目ざとく見つけた右川の父親が、「いいからいいから、入りなさいって」と手招きしてくる。
仕方ないとばかりにお邪魔して……山下さんから、「何か食べた?」と聞かれて、「はい、さっき」と答えたそこに、ゴン!と乱暴に麦茶が出てきた。
右川だった。
何で入ってんのよ、図々しい、と責める目とは対照的、「はいこれ♪オゴってもらったから」と山下さんを横目に、取って付けたような愛想を振りまく。
オゴったわけではないんだけど……ま、いいか。
(てゆうか、なし崩しにオゴらせたな)
右川は、次は早速エプロンをつけて山下さんの後ろで皿なんか洗い始めた。
そんな姿はまるで別人。オカルトでも眺めるように見物していたら、右川の父親が、「さっきお母さんと話したよ」と、明るく話し掛けてくる。
母親が何を言ったか知らないが、「男の子2人は大変だよな」と、父親が神妙に頷く辺りから察するに、家族の愚痴話に終始したんだろう。
東大に合格したという兄貴の話を、根掘り葉掘り、聞いたに違いなかった。
「うちは上に兄貴。下に中3の妹。カズミと2人そろって受験でね」
「だーかーらー、あたしは受験しないって言ったじゃん」
短大。
専門学校。
推薦で行けそうな大学。
何かやりたい事は?無いのか?得意な事は?高校生にもなって情けない。
父親から一方的に責められて、右川は舌打ちで返事をする。
そのうち父親を無視して作業に没頭し始めた。
そのやり取りを、静かに聞いていた山下さんが、「おじさん」と差し込む。
「カズミが卒業してから、と思ったんだけど」
山下さんは、そこで言い淀んだ。
やけに改まって聞こえる。
何度も瞬きを繰り返して、まるで居場所に迷うみたいに。
初めて見る、その表情……どことなく山下さんには、そぐわない。
「実は、そろそろ結婚しようと思ってる」
俺は息を呑んだ。
自分を含めて話を聞いた3人3様、まるで別々の反応がそこに表れる。
まるで色違いの空気が漂うみたいだと思った。
まず父親が、ほおーと、感嘆の声を上げた。
山下さんの背後でそれを聞いた右川は、目を見張る。
信じられないといった様子で、胸に手を当てて、見る見るうちに頬を赤く染めた。ぱあっと笑顔を咲かせて……初めて見る、その表情。
え。
え。
嘘だろ。
マジか。
右川と山下さんが結婚。
まさか。
俺は、少なからず動揺した。ていうか、いつの間にそんな事に。
ゆくゆくは、そういう事もある、とは……あながち嘘でもなかったのか。
水面下で進んでいた……とはいえ、今までの山下さんの態度はどう見ても、保護者というだけの……右川の幸せそうな笑顔を真正面に見せつけられても、俺は、まだまだ半信半疑だ。
山下さんは、グラスを1つ、カウンターに置いた。
自分で缶ビールを注いで、それを一口飲んで。
「もう付き合って長い子がいるんだけど。ここが無くなるとカズミが学校遠くなるから、どうしたらいいかと思って。実は来年4月から、正式に塾の講師になる話があるんだよ。いいタイミングだから結婚しようって彼女と話した。そしたら店も閉めることになると思う」
そして、グラスに残ったビールを一気に飲み干した。
空のグラス。洗って、ゆすいで、かごに立てて……山下さんが一連の作業を進めるその間に、右川の表情がどんどん変わる。
温度が下がるように、するすると、その表情からは熱が、勢いが、奪われていった。瞬きひとつ、しない。その瞳の内から大粒の涙が、こぼれ落ちる。
瞳を閉じて、そのまま下を向き、そこから二度と、右川は顔を上げなかった。
初めて見る、その表情。
俺は目をそらした。
もう見ていられない。
「そうか。そんな人がいたんじゃカズミの事悪かったな。こいつは家から通えばいいんだし、遠くなったら車で送っていくから気にしなくていいよ」
今まで良くやってくれたと、父親の言葉が終わらないうちに、右川は店を飛び出した。
山下さんは淡々と作業を続け、父親は茶をすすり、まるで何事も無かったみたいに時間が流れる。言いようのない居心地の悪さが、俺を襲った。
……俺は、何でここに居るんだろう。
それは、無関係なのに偶然この場に居合わせてしまった、という迷惑感情ではない。何かの引き合わせで俺は、この場面を眺めている……そんな気がして。
多分、俺自身が、山下さんに1番近い所で共感できるんじゃないか。
「受験で大事な時期に。おじさん、すみません」
父親は頭を掻いて、
「いいよいいよ。あのバカ娘の事は。それより1度連れてきなさいよ。その彼女を」
残ったお茶をじっくり味わうように口に含み、飲み下して、帰っていった。
山下さんと二人きりになった。
帰る機会を失ったかもしれない。
帰る事を許されていない気もする。
何を言えば……この場を収めるために言葉を探すというのも、どこか違う気がした。
「卒業してから言おうと思ってたんだけどね」
沈黙を破って、山下さんが静かに語り始める。
「今日おじさんの話聞いてたら、カズミのやつ大学行かないとか言ってるらしいし。俺のせいで進路まで決めちゃうようなら、今言っといた方がいいかなと思って。今なら大学、まだ間に合うよね?突然で、ちょっと可哀相だとは思ったんだけどさ」
「これ、俺が焼いたんだよ」
アイスコーヒーが、淡い水色の陶器で出てきた。
焼いた?
あ、確か、陶芸をやるとか。
「沢村くん、ごめんね。なんか巻き込んじゃったね」
アイスコーヒーのミルクがゆっくり混ざるのをぼんやり眺めて、「俺……わかります」と呟いた。
自分と桂木の事を思ったから。
右川のヤツ、これからどうするんだろう、と気にもなったし。
「カズミは大丈夫。平気だよ。どっかで大泣きしてるんだろうけど、そのうちケロッと出てくるから」
帰りがけに、「カズミの事、頼むね」と、山下さんに頭を下げられた。
「はい」と、俺も頭を下げて返事はしたものの……自分の事が先だと、突きつけられた気がしている。
雨は、また止んだ。
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