透明な檻の魚たち
 アパートのドアに鍵を差し込み、開ける。ほとんど無意識にこなすようになってしまった作業。
 暗い玄関で、つま先が痛くなったパンプスを脱ぐことも、窮屈なストッキングを、部屋に入る前に洗濯籠に放り込むことも。

 いつもは疲れた息を吐きながら部屋に入るけれど、今日はどうしてだか、肩にかけた鞄の重さをあまり感じなかった。

 一条くんとは、明日その本を持ってくることを約束した。肩の力が抜けた原因は、彼と話したからかもしれない。

 私はどこかで生徒との間に、壁を作っていたような気がする。それは生徒のことを「生徒」というくくりでしか見ていなかったからだ。生徒一人一人を「個人」として見ることができなかった。自分が未熟だったせいで。

 でも今日、一条くんのことを「生徒」じゃなくて「一条透哉」という一人の男の子として見て、話すことができた。それはとても楽しいことで、それだけで自分が、明日から変われるような気がした。

 私の見えない壁を取り払ってくれたのは、彼の言葉だった。

 文庫本やハードカバーがぎゅうぎゅうに詰まった雑多な本棚から、指輪物語の「追補編」を抜き出して、積もっていた埃を落とす。明日この本を一条くんに渡すことを考えると、なんだかわくわくした。

 それは、学生時代に忘れてきてしまった、恋に似ていた。

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