透明な檻の魚たち
王子様と卒業
 あのあと私は、逃げるようにして帰ってしまった。何と言って一条くんと別れたのか、うまく記憶していない。

 けれど、あの時言われた彼の言葉は、何度も何度も反芻するうちに、しっかり記憶に焼き付いてしまった。一条君の真剣な眼差しと一緒に。

 彼はあの日のあとも普通に図書室に来ていたけれど、言葉を交わしてはいない。

 彼は図書室の本を、無事にすべて読み終えたのだろうか。

 尋ねられないまま、暦は三月を迎え、卒業式になった。



 体育館の床に敷かれたビニールシート。壁に下ろされた紅白の幕。全校生徒でひしめいているはずの体育館の中はいつものような熱気を感じず、ただ、卒業生たちが流す涙の清潔なにおいがしていた。

 私は体育館端の職員席から、卒業生を見送る。卒業証書授与の番が、三年六組になった。担任教師がマイクで「一条透哉」と呼ぶ。あのよく通る涼やかな声で「はい」と返事した一条くんは、立ち上がる。

 遠くから見ると、一条くんが意外とたくましい背中をしていたこと、まっすぐだった髪の毛にちょっと癖があることが分かった。近くにいる時は、気付かなかったのに。

 一条くんは揺るぎない瞳で、まっすぐ前を見ていた。これからの未来を見つめるみたいに。

 ――と、黒くて綺麗な瞳が急に、職員席のほうを振り向いた。目が合う。一条くんも驚いた顔をしていたし、私も驚いた。

 でも、目が逸らせなかった。そのまま、何秒――何十秒? 私たちは卒業生の名前が次々と呼ばれる中、見つめあっていた。

 一条くんは何か言いたげでもあったし、切なそうでもあった。黒い瞳は遠くから見ても、少し潤んでいるように見えた。胸が、苦しくなる。それは以前自分で予想していたよりも、はるかに甘く疼く痛みで、私は少しだけ、瞳を濡らした。
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