透明な檻の魚たち
「先生」

 卒業生が、体育館の外に集まっている。先輩に別れを言って泣いている子や、第二ボタンや校章をもらう子を甘酸っぱい気持ちで見つめていたら、一条くんが近くまで来ていた。

 わざわざ教室まで取りに戻ってからここに来たのか、片手には私が貸したハードカバーの本。

「卒業式までに返せばいいっていう約束を律儀に守るなんて、一条くんらしいわね」

 私がくすりと笑うと、

「僕らしいって言われるほど、先生とは付き合いが長くありません」

 と怒ったような口調で言われた。

「……そうね。ごめんなさい」

 いいえ、と言ったあと、ぶっきらぼうに本を渡される。私はその時間を惜しむように、両手で丁寧に受け取った。

「あと、これ」

 本を持っていなかったほうの手を差し出される。握った手のひらを開くと、学生服のボタンがひとつ、転がっていた。

 弾けるように一条くんを見る。学生服の上から二番目のボタンがなくなっていた。

「いいの? これ」
「他にもらってくれる人が、思いつかなかったんです」

 それは嘘だと分かった。一条くんのボタンなら、自分がもらいたいという女子生徒がたくさんいるだろうから。わざわざ、そういった申し出を断ってくれたのだろうか? 私のために。

「でも、私じゃ、返せるものがないわ。……あ、そうだ」

 私はスーツの袖に付けていたカフスボタンをひとつ、外す。本物の翡翠を使っている四角い形の、お気に入りだった。

「これを、お返しにもらってちょうだい」

 一条くんは目を丸くして首を横に振る。

「だめですよ。これ、すごく高そうじゃないですか」

「私よりも、あなたに似合いそうだから。大学の入学式の時にでも、スーツに付けてくれたら嬉しいわ」

 半ば強制的に、その大きい手に握らせる。そうすると、私の袖に収まっていた時よりも、彼の手のひらの上のほうが翡翠が輝いている気がして、私は顔をほころばせた。

「元気でね」

「先生も」

「ええ」

 春の風が、ふわっと私たちの間を通り過ぎた。桜なんてまだ咲いていないのに、一条くんの顔がピンク色に霞んで見えた。
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