蜜月は始まらない
「華乃。俺終わったから次どーぞ」



特に夢中になるでもなくリビングのソファでテレビを観ていると、キッチン横にある脱衣場のドアから現れた錫也くんが声をかけてくれた。

肩にタオルをかけ、ロンTにスウェット姿の彼はまっすぐ冷蔵庫に向かい、飲み物を取り出している。



「あ、ありがとう、柊くん」

「錫也」



ついとっさに苗字呼びをしてしまうと、カシッといい音をさせてペットボトルの蓋をひねる彼からすかさず訂正が飛んでくる。き、厳しい……。



「ありがと! 錫也くん!」



半ばヤケクソのように元気よく言いながら、ソファを立ってリビングから逃げ出す。

自室には実家から持ってきたタンスや細々した雑貨があり、見慣れたものに囲まれているとやはり落ち着く。

無意識にため息を吐きながらタンスを開けて、ルームウェアや替えの下着を取り出した。

化粧落としは日中のうち、洗面台に並べておいたしー……シャンプー類も、すでに設置済だ。

よし、とひとつうなずいて、脱衣場へと向かう。

服を脱いでお風呂場のドアを開けた瞬間、むわっとした熱気が肌に触れて無性に恥ずかしくなる。

さっきまで、ここに、錫也くんが……──。

考えかけて、ブンブン頭を横に振った。まるで、思春期の男の子みたいじゃない? 今の私の思考。

意識しない! 意識しない! 意識、しなーい!!

心の中で唱えながら顔を洗い髪を洗い身体を洗い、ざぶんと湯船に浸かる。

……ひとつ屋根の下にいて、お風呂で身体も綺麗にして。

こんなシチュエーション、普通だったら男女のアレコレ的なことが起こってもおかしくないんだろうけど……私と錫也くんは、そういうんじゃない。

だから今、私が無駄にドキドキしてしまっているのは……完ッ全に、取り越し苦労だ。

無になれ、私。心を穏やかに……凪いだ海のように……。
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