Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~
 「千紗っ!」

 強制的に後ろを振り向かされたと同時に名を呼ばれる。
 嫌というほど耳に馴染んだその声は、さっきまで考えていたその人、裕也だった。

 ハッと息を飲んだ。けれど吐き出すことが出来ない。
 大きく目を見開き、口を半開きにしたまま、千紗子は全身を強く強張らせた。

 「千紗、いままでどうしてたんだっ、携帯も通じないし。」

 「けい、たい……」

 鞄に入れっぱなしの携帯電話は、無意識だが一度も見ていない。千紗子の深層心理が裕也との接触を拒んだからだろう。

 「千紗っ」

 声を荒げる裕也と、青ざめた千紗子は周りからの注目を浴び始めていた。

 スーツ姿の裕也は、胸から『入店証』のネームタグを下げている。

 (そう言えば、このモールの中に裕也の営業先のお店が入っていたんだ…)

 飲料メーカーの販売営業をしている裕也は、取扱い店舗に商品の案内など営業で行くことがあると聞いていた。
 けれど、よりにもよってこんな所でかち合うとは思っても見なかったのだ。

 (きちんと裕也と話をしなきや……)

 青ざめながらも、このままではいけないと千紗子は思った。
 三年も付き合って、仮にも結婚の約束までした相手なのだ。
 きちんと話をしないまま、避け続けることなど出来ない、と千紗子は腹をくくる。

 「裕也、ここだと目立ってしまうから、」

 「ゆうべはどこにいたんだっ!」

 大きな声に千紗子の体がビクリと跳ねた。
 怒鳴られるような喧嘩などこれまでしたことがなかったのに、初めて聞く裕也の怒鳴り声に千紗子は萎縮してしまう。
 
 「あの男の所なのかっ!?それとも、別の、」

 千紗子の二の腕を、裕也が両手で掴む。
 力一杯掴んでいるのか、千紗子の腕に指が食い込んで痛いけれど、それ以上に千紗子は目の前の男が怖かった。
 カタカタと手が小刻みに震えて、血の気が引いて行く。
 お店の中で他の客に遠巻きに見られている視線など、もう気にする余裕もない。

 両目に涙が盛り上がって、こぼれ落ちる直前。
 千紗子と裕也の間に、大きな背が立ちはだかった。
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