千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-
良夜たちが着く少し前――

美月は粗末な鏡台の前に座り、巫女装束の上半身だけ脱いでじっと自身の身体を見ていた。

…産まれた時から左胸に痣がある。

普段から隠せる場所だったため今までなんとも思っていなかったけれど、この痣があることを何故か良夜は知っている風だった。


「どうして知っているの…?」


はじめて会った気がしなかった。

それに違う名で呼ばれた。

違う名を、呼んだ。


「神羅…黎…」


確かに神羅と呼ばれて、確かに自分は良夜を黎と呼んだ。

まるで意味が分からないけれど、身体の奥底から何かが爆発するような感じがして恐ろしかったのを覚えている。


「誰にも見せたことがないのに…不思議ね」


言い寄って来る男は山ほど居たが、心も肌も許した男はひとりも居ない。

里の外から会いにやって来る男も山ほど居たが、心は微塵も動くことはなかった。


だから、自分は誰かを待っているのだと思ったのだ。


「…?この気配…」


誰から神社を訪れた気配がしたため素早く巫女装束を着直して立ち上がると、扉を開けて参道を見渡した。

優雅に空から舞い降りて来た狼とその背に乗っている良夜を見た美月は、通例通り山を歩いて登って来なかった良夜を叱るため、肩を怒らせてずんずん突き進んだ。


「ほらーめっちゃ怒ってるし。俺逃げるからあとよろしく」


「あ、こら逃げるな」


一目散にその場から逃げ去った狼を軽く睨んで見送った良夜は、恐る恐るといった体で振り返り、美月の憤懣遣るかたない表情を見て頬をかいた。


「何故怒っているかは分かってる」


「そうですか。では怒られる覚悟はあるということですね」


「俺は利口だから怒られ慣れてないんだ。怒るなら多少で頼む」


「いいえ、正座をさせてこってり怒ります」


「じゃあその前に朝餉にしよう。約束通り魚を持って来た」


…まるで反省していない。

盛大なため息をついた美月は、神社の脇に建っている蔵をさしてにっこり。


「あの中に荷車がありますから運んでください。もちろんお主が引くんですよ」


「か弱い女に重労働させるつもりはない。任せろ」


結局また一緒に朝餉を食べることになるのか、とげんなりしたものの、結局一緒に荷車を引いて住居に運び込んだ。
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