限定なひと

*   *   *

 またしても、横目でちらりと彼を伺う。
 眼鏡にスマホの明滅が映り込んでいて、彼の表情はよく分からない。でも、にじみ出る雰囲気から、相当に機嫌が悪いという事だけははっきりとわかる。思わずため息を漏らしかけたその瞬間、再びカチカチという音と共に車が動き出す。
 気まずい雰囲気を内包したまま走り続ける車が、曲がり損ねた十字路にさしかかった、その時。
「……とり善」
 低い声が、車内の空気を震わす。
「は?」
「だから、今回はやきとりで見逃します」
 な、なに? 何がどうして、鶏?
「さっきナビゲーション、ミスったでしょ? それのペナルティ。確かこの辺りに、とり善があると思ったんですけど」
「いや、それはあるけども、でも、なんで」
 その時、ガクリと身体が慣性の法則に揺さぶられた。慌てて窓の外に視線をやると、そこには良く見知った『池垣製菓』の看板文字。
 すかさず彼は、取ってつけたような狭苦しい後部座席からいぶし銀のアタッシュケースを取り出すと、中から書類一式をだして手早く確認しだす。
 バサバサと音が鳴るたび、私はびくびくしていた、けど。
「……これ」
 彼の呟きと共に不愉快な紙音が止んだ。恐る恐る隣を伺うと、そこには私の書いた一筆箋を手に取り、じっと見つめる彼が居た。恥ずかしさのあまり取り上げたくなる衝動を、私は必至に抑え込む。
 その時なぜか。ふ、と彼の口元が僅かに笑みを結んだ。
「ちょっと待っててください。すぐ終わらせてきますからっ」
 そう言うと彼は、ダッシュボードに黒縁フレームのそれを放ると、颯爽と車から出て行ってしまった。
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