水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
「なんだ? 俺の顔をじろじろ見て。まずは、俺になにか言うことがあるだろう」
「あっ……あの、助けてくださって、ありがとうございます」
「……ふん。偶然、俺がここに来たからいいものの、もう少し遅かったら命はなかったかもしれない」
「す、すみませんでした。でも、偶然って……えっ?」

 波音は、そこで違和感に気付いた。男の声と潮騒《しおさい》以外、何も聞こえないのだ。海水浴に来ていた客は数え切れないほどいたはずなのに、その喧噪《けんそう》もない。ジムの生徒たちや、大和や、他の職員たちはどこに行ったのか。

 周囲を確かめるために、波音は起き上がろうとした。しかし、腕にも腰にも、力が上手く入らない。溺れた直後だから、当然と言えば当然なのだが。

 男はそれを見かねたのか、溜め息をつきながらも波音の背中と膝下に腕を入れ、抱き起こして立ち上がる。波音は小さな悲鳴を上げて、男の腕の中で縮こまった。

(お、お姫様抱っこ!)

 波音がまだ小学生の頃、運動会の徒競走で転けて怪我をしたのだが、応援に来ていた碧に、こうして助けてもらったことを思い出した。あの時も胸を高鳴らせたものだが、こうして大人になってみると、恥ずかしさが勝っている。

 視界が随分と開け、波音は男から視線を逸らすようにして、辺りを見渡した。

「え……なんで?」

 先程から静かだった理由が、遂に判明した。波音と男以外、海岸には誰もいないのだ。
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