水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
初恋が忘れられない
 波音が綱渡りをする、そのおよそ一ヶ月前のこと。波音はごくごく普通の日本人女性として、別の世界――つまり元の世界で働いていた。

「では皆さん、そろそろ休憩しましょう。十分間、プールサイドに上がって身体を休めてください」
「はーい」

 ゴーグルをスイムキャップの上へと外し、波音は生徒たちにそう言った。

 波音の職業はスポーツジムのインストラクター。水泳コースに通う女性たちを担当している。彼女たちは、水泳が苦手で克服したかったり、ダイエットや全身の引き締めが目的としていたりと、様々だ。年齢層は十代から五十代と幅広い。同世代だけでなく、子育てを一段落させて参加する主婦たちとの交流も、波音は楽しんでいる。

「先生、後でフォームを見てもらってもいいですか? 平泳ぎ、上手く進まないんです……」
「いいですよ。蹴りの形から見直しましょうか」
「ありがとうございます!」

 生徒の一人・前田ひろみが嬉しそうに微笑み、プールサイドへと上がっていった。自分の意思で通ってきているからか、熱心な生徒が多く、波音は仕事に対して充実感を覚えている。

 波音も、大学生時代まではプロの水泳選手を目指していたのだが、肩の故障が続き、全く結果が出せずに諦めてしまった。しかし、水や水泳には関わっていたいという思いから、教える側の人間になることを決めたのだ。

(これが天職かもしれないな……)

 波音もプールから上がると、進行予定表の挟んであるボードを手に取り、チェックマークをつけていく。本日も全員出席。練習メニューも問題なく消化できている。

 波音が満足げに頷くと、同じ二十代の生徒たちが四人、そわそわしながら歩み寄ってきた。何事かと、波音は首を傾げる。
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