クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした
「それじゃあ」

タワーを降りるのは別々がいいと私も彼も思っていた。彼は私に自分のハンカチを押し付け片手をあげ、先にエレベーターに向かい歩いて行ってしまった。

変な女に当たったと思っているだろうか。私は久しぶりに本気で泣いたせいで、かすみがかかったようにぼんやりしていた。目も熱いし、鼻はすすりすぎて苦しい。もう少し落ち着いてから降りよう。
それにしたって、今日の出来事は明日には後悔で死にそうになるに違いない。見ず知らずの男性の胸で泣いてしまうなんて。30歳の女のやっていいことじゃないでしょう。

でも、たった今、この瞬間、私の心は穏やかだった。ここ最近で一番の平穏を手に入れていた。
それはありがたいことに彼のおかげだった。
ぼうっと彼の去っていった方を眺めていると、背の高い人影。なぜか、彼が小走りで戻ってきた。

「あのね」

彼は私に近づき、言った。

「本当はこのままさらってしまいたいです。でも弱みにつけ込みたくない。もし、縁があったらまたここで会いましょう」

ちょっと真剣な表情の彼は、印象的な瞳をきらりと光らせそう言った。
なんてふわっとした約束だろう。運任せ、天任せ。そう思いながら、なぜか彼の出してきたその提案が居心地よかった。
私は泣き笑いの顔で頷いた。

「ええ、縁があったら」

彼は照れたように微笑んで、踵を返し、もう戻ってこなかった。

夏の日は残光すら消えてしまい、東京タワーの周囲は完全に夜に染まっていた。
夜景を横目に、私は穏やかな気持ちだった。

この日、たったひとりの青年は間違いなく私を救った。
阿木真純(あぎますみ)30歳のぺしゃんこになりそうな心を抱き締めてくれた。







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