【2025.番外編&全編再掲載】甘い罠に溺れたら
「こちらこそ。よろしく頼みます」

作り笑いにも見える笑顔を残して、佐伯部長は私にそう言うと、くるりと踵を返し、自分の席に戻っていった。

「いいなー、沙耶さん」

満ちゃんの言葉に、私は内心 冗談じゃない と思いながらも、曖昧な表情を浮かべた。

「羽田さん、さっそくちょっといい?」

先ほどからそんなに時間がたっていないことと、いつの間にか近くに来ていた佐伯部長に、私は驚いて言葉に詰まった。

「え……っと」

私の返事をどう受け取ったのかはわからなかったが、佐伯部長は表情を変えずに言葉を発した。

「その仕事、何分ぐらいで切りがつく?」

トントン、と私のデスクの端を綺麗な指で叩きながら、佐伯部長は私を見た。

「……30分ぐらいよろしいですか?」

たかが30分で気持ちを切り替えられるとは到底思えなかったが、私はそう答えていた。

トントン、と叩かれた音が耳から離れず、知らず知らずのうちに私は耳元に手を当てていた。
そして、思い出したくないことを思い出し、憂鬱になる。

昔も、講義や学食などで、彼は私を見つけると、今みたいに トントン とよく机を叩いて私を呼んでいた。

『沙耶、お待たせ』

あの優しい笑顔が、今でも頭に浮かんでは消えていった。
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