Shine Episode Ⅱ
水穂を浴室に押し込めたあと、籐矢は紅茶のカップを片付けて、棚からグラスを二つ取り出した。
掃除が行き届いた棚には埃ひとつなく、留守を守ってくれた家政婦の三谷弘乃の顔を思い浮かべながらグラスをテーブルに並べる。
今日の昼過ぎ、退院しました、元気にしていますご安心くださいと、弘乃から電話があった。
せっかくお帰りになられたのに、このようなことになって申し訳ない、お宅へ伺うつもりでいたのにすみませんとの律儀な言葉に、こちらは心配いらない、ゆっくり過ごすようにと返事をした。
船内で水穂とともに監禁されて怖い思いをしたはずなのに、あれくらいたいしたことはない、私も警察官の妻でしたからと、弘乃の気丈な言葉が耳に届く。
母とも姉とも慕う弘乃を案じながら、籐矢はひとまず安心したのだった。
上気した顔をタオルで拭きながら水穂がリビングに入ってきた。
セミロングの髪を上げたうなじはほんのり色づき、水滴が光っている。
始終一緒に行動している籐矢でも、水穂のそんな姿を目にすると胸が騒ぎだす。
籐矢のTシャツとハーフパンツを、無造作に着た隙だらけの体から故意に目を反らし、裾からすらりと伸びた足を目の端に入れながら、さも今気がついたように声をかけた。
「おっ、あがったか。さっぱりしただろう」
「ありがとうございました」
「ビール、冷えてるぞ」
「わぁ、美味しそうですね。のみたいけど、我慢します」
「そう言わず、付き合え」
「いいえ、アルコールが残ったら飲酒運転になりますから」
「そのときは俺が送っていく。おまえを危ない目にはあわせられないからな」
籐矢の言葉を聞いた水穂は、恥ずかしそうにしながらもとろけるように微笑んだ。
突っ立ってないでここに座れと、隣りをポンポンと叩く籐矢に、反対側に座りますなどと無粋なことも言わずソファに歩み寄り腰を下ろす。
ちゃんと拭けてないぞと言いながら、水穂が手にしていたタオルを取り上げた。
籐矢がうなじを拭くあいだ、されるままになっていた。
ふだんもこんな風に可愛げがあるといいのだがと思うが、そんなことは口にしない。
どれほど親しくなろうとも自分から甘えてきたりはしないのが水穂で、そんなところも嫌いではないが、今夜は少し甘さが漂っている。
ふざけてうなじに息を吹きかけると、
「キャッ、やめてください。もぉ、くすぐったい」
籐矢をたしなめながら、じゃれて戯れるネコのようだ。
「あっ、けど、送ってくれる神崎さんが飲んだらダメじゃないですか」
「これくらい大丈夫だ。朝になれば酒は抜けてるよ」
「そんな適当なこと言っていいんですか?
警察官たるもの、己を律して身を慎めって、神崎さん、警察学校で生徒に教えたでしょう。
水野君は教官に言われたことを真面目に守ってそうですから、ちゃんと手本になってくださいね」
ことさら親密な時間を持つつもりはなかったが、いきなり教え子の名前を持ち出され、甘くなりかけた気分が一気に消えた。
こんなところも水穂だ、コイツに艶がないのは今に始まったことではない、期待は無駄だと自分に言い聞かせて籐矢は話の流れに乗った。
「その水野だが、おまえも親しそうだったな」
「神崎さんがリヨンに行ったあと、一緒に仕事をしていましたから。
でも、爆発物処理が専門とは知りませんでした。神崎さんは、彼とはどこで?」
「おまえがさっき言っただろう、警察学校の教官と生徒だよ」
水野の身分をさっさと教えれば良いものを、水穂を試すように言い返す自分は素直じゃないと思うが、それができないのが籐矢だ。
親しくない相手には問答無用とばかりに言葉をぶつけるのに、親しい相手には無意識にストレートな表現を避けてしまう。
家庭内で疎外感を感じていた少年時代の名残りだとは、籐矢も気がついていない。
「そうじゃなくて、神崎さん、いま言ったじゃないですか、おまえも親しそうだったなって。
ということは、神崎さんも水野君と親しいということですよね?
教官と生徒だから親しいなんてのは、言いっこなしですから。ちゃんと答えてくださいよ」
「ははは……まいったな」
「何を勝手に敗北宣言してるんですか。私もビールを飲みますから、ほら、言ってください。
へぇ、ボヘミアビールですか、美味しいですね。
このビールをボヘミアグラスで飲むなんて、シャレてるじゃないですか」
「シャレのつもりはない、そこにあったから出しただけだ」
「ふぅん、さりげなく高級グラスがあるなんて、何気に御曹司ですものね、神崎さんって」
「うるさい!」
余裕で接していたはずが、御曹司と、籐矢が嫌う言葉をわざと使い、感情をあおってきた水穂の方が優勢になっていた。
「で、水野君との関係は? ついでに、井坂さんのその後も教えてください。
あの先生、黒幕じゃないけど、それに近いんじゃないかと、私、思ってます」
悪くない推理だなと言い、ビールを一気に喉に流し込んだ籐矢は口の泡をぬぐった。
「京極長官の後任を知ってるか」
「名前だけは。田島さんと発表されていましたね」
「そうだ。じゃぁ、近衛さんの後任は?」
「もちろん知ってます。警察大学校副校長の……確か、水野……えっ、水野さんって」
水野警視長ですか、父の後輩で温厚な方ですよと述べ、「あれ? 人事に無理がありますね」 と続けた水穂に籐矢はほくそえんだ。
昇進の順序に疑問を持ったか、目のつけどころがいいじゃないかと密かに思う。
しかし、水穂の疑問にはあえて答えず話を進めた。
「水野警視長は、水野紳一郎の父親の兄だ」
「伯父さんですか。彼のお父さんも警察幹部でしたか? 記憶にありませんが……」
「水野の父親は外務省勤務だった。警察庁の田島さんは、水野の母方の遠縁だそうだ」
「わぁ、彼ってサラブレッドだったんですね」
いるんですね、そういうつながりを持った人って、近衛さんのお家みたいですね、警視庁、警察庁に外務省ですか、事件があったら即解決しそうですねと、冗談めいて語っていた水穂の口がふいに止まった。