願わくは、雨にくちづけ
「今日の夜は、バーで少し飲んでから帰ろうか」
「そうですね。たまには、旦那様と夜更かししたいです」
(なんだか懐かしいな……)
赤信号になったばかりの十字路で、伊鈴は番傘からの景色にあの夜を重ね見る。
もし、あの日、雨が降っていなかったら……。立花は今でもそんなことを不意に考えることがある。
(夜の銀座に、伊鈴を放していただろうな)
そして、メトロに乗ろうとする彼女を強引に抱き寄せ、一夜を共にすることもなかっただろうと、選ばなかったもうひとつの現実を思い浮かべた。
もし、あの日、晴れていたら。伊鈴も、彼と過ごす日々の中で、時折そんなことを考える。
(旦那様の番傘の中から見た景色は、きっと見れなかったんだろうな)
ほのかに白檀の香りを纏った彼の優しい微笑みに、胸の奥を高鳴らせることもなかった。
もう会えないなら、一緒に過ごした24時間を繰り返したいと互いに焦がれることもなく、別々の未来を歩んでいたかもしれない。
そして、こうして幸せな毎日に心が満たされることもなかっただろう。
「――伊鈴」
「はい」
小首を傾げて見上げてくる伊鈴の頬に手を添え、はんなりと微笑んだ立花は、愛しい妻の瞳に想いを映す。
そして、出会った日の雨にくちづけるように、傾けた番傘に隠れながら、ふたりはそっとキスをした。
―fin―


