結婚願望のない男

そして、朝を迎えた。
ベッドでぐっすり眠りこけている弓弦に憎い視線をやりつつ、私は眠い目をこすりながらなんとか起きだした。家を出るまでの時間にあまり余裕はないけれど、それでも私は全自動式のコーヒーメーカーに豆をセットして、スタートボタンを押した。一杯のコーヒーが出来上がるまでは10分もかからない。私はその間に洗顔や着替えなどを済ませる。

(あーっ!キスマーク…こんなに…!)

鏡の前に立つと、嫌でも昨晩を思い出してしまう赤い痕が体に点々と。
服からはみ出して見えるものがないか入念に確認していると、コーヒーの良い香りが漂ってきた。
…一年前は豆から挽いたコーヒーを自宅で飲むようになろうとは、想像もしていなかった。朝は絶対にコーヒーを飲みたいと訴える弓弦は、私の家に自腹で買ってきたコーヒーメーカーを設置した。そして弓弦に色々と教わるうちに私自身も多少コーヒーに詳しくなり、食欲のない朝でもコーヒーだけは飲むようになった。
今朝は弓弦と一緒に飲めないことを少し寂しく思いつつ、できたてを一杯飲んでから家を出た。



「おはようございます」

「おはようございます、品田さん」

「遥、おはよー」

部署に着くと、島崎くんと石田先輩がニヤニヤしながら声をかけてくる。

「こんな日に出社なんて災難ですよね。はい、かわいそうな品田さんに、ワタナベ食品のチョコレート。昨晩どれだけ盛り上がったのか知らないですけど、甘いもの食べて頭働かせてくださいね」

かつて向かいの席に座っていた島崎くんは、この春の座席移動で私の右隣の席になっていた。

山神さんとお付き合いすることを伝えた後も、彼は相変わらず私のために特別好きなわけでもないお菓子を机に常備してくれている。ただ、あれ以降彼はわざとワタナベ食品のお菓子ばかりを仕入れるようになったのだけれど。新商品が出るたびに「これは山神さんのチームが作ったやつ?」とニヤニヤしながら聞いてきて、からかってくるのは本当に勘弁してほしい。

「なっ!朝から何てことを…!そんなんじゃないし!」

「目の下のクマでわかるのよ、あーあ恥ずかしい。キスマーク見えてない?大丈夫?」

「だっ、大丈夫ですよ!ちゃんと朝確認し…あ」

「ほらやっぱり!昨晩はお楽しみだったのね」

「しーっ!!!!石田先輩!!!セクハラで訴えますよ!」

石田先輩は相変わらず私の隣の席だ。左に石田先輩、右に島崎くんで、昨年度よりいっそうにぎやかさが増した。
島崎くんのいた正面の席にはこの春から新入社員の女の子が入ってきた。一生懸命でちょっとそそっかしくて、とても可愛い子だ。教育係は島崎くんが任されていて、新人の女の子に手を出さないように私と石田先輩もちょこちょこと口をはさんだりしている。島崎くんはまだ新人の扱いに慣れていないようで、四苦八苦している姿にかつての自分の姿を重ねて微笑ましい気持ちになってしまう。

ちなみに、島崎くんには昨年のクリスマスに彼女ができた。
私が彼を振った後数か月は落ち込んでいて良心が痛んだけれど、話を聞く限り新しくできた彼女は私よりもよっぽどしっかりした魅力的な女の子のようだ。写真を見せてもらったけど、かなり可愛かったし…。やっぱりモテる男はこうでないと。私と石田先輩は自分のことのように喜んでお祝いした。


「どうした、朝から騒がしいな。あ、品田!今日は午前でちゃんと帰れるんだろうな?今日行けなかったら俺が一生恨まれそうだからな~」

と、私に声をかけてきたのは、この春から新しくうちの部の課長になった先輩だ。

私を悩ませた前の課長は、この春で異動になった。

「課長!だ、大丈夫ですよ!ご心配なく!絶対終わらせますから!」


前の課長とうまくいっていなかった件については一時的にでも部署異動を考えていたし、実際に人事に相談したりもした。だけど、島崎くんも石田先輩も部の他の人も、私が課長に厳しく当たられていることを知っていて味方になってくれた。課長がパワハラをしているのではないかと人事に訴えて、私ではなく課長が異動になったのだ。夏以降は強く怒鳴られることもなくなっていたから、少し罪悪感はあったけれど。
私は大好きなこの部署を離れることなく、島崎くんや石田先輩も異動になることなく、良いメンバーに囲まれて好きな仕事をできるという理想的な状態になっていた。

(…無事彼氏もできたし、どん底だった一年前がウソのようだわ。島崎くんにも彼女ができたし、後は石田先輩に彼氏ができると最高なんだけど…。まぁ、最近ちょっと合コンで知り合った良い人がいるみたいだから、私も応援しないとね)
そんなことを少し考えてから、(いけない…そんなことより仕事仕事)と思い直して仕事モードに頭を切り替える。

そう、今日は特別な日。
絶対に午前中に仕事を終わらせなければ。

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