Ignition
「むかつく。助手席にこんなにいい女がいるのに、馬鹿じゃないの」

新井はつい笑い声を上げた。一向にのってこない桐谷を不思議に思い、横顔にふと目を向けたとき、息が詰まりそうになった。

気の強そうな切れ長の目には、微かに涙が浮かんでいる。掛ける言葉もないままに、伸ばしかけた手を止めて、新井はぐっとハンドルを握り直した。


 護国寺西の交差点から一本入ったところに、桐谷の住むマンションがある。入り口のはす向かいに車を停車させ、新井は荷物を下ろした。

「とりあえずそこまで持ってく」
「あ、すみません」

 窓越しの会話で美香との別れを惜しんでいた桐谷は、小さく手を振って車を離れた。早足でマンションの入り口までたどり着き、一度新井に頭を下げた。

「送ってくれてありがとうございました」
桐谷は仕事の顔に戻っている。これで良い、新井は自分にそう言い聞かせた。
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