恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 夕方、患畜の給餌が終わって落ち着いたころ、ルカのオーナーがいらして、院長がケージに案内して病状や治療効果を説明している。

「ルカちゃんに寄り添って、たくさん可愛がってあげてください」

 院長は静かに席を外し、オーナーとルカだけにしてあげて、触れ合い語らう時間を設けた。

 それが意味することはわかっているつもりだったから、敢えて院長の前では口にも態度にも出さない。

 しばらくしてオーナーが、お礼を言いながら出て来た。

 自分の手から大好物を食べたって、私に向けるオーナーの瞳が潤んでいる。

「よかったですね、ルカちゃんは頑張って偉いです。治るように頑張りましょう」

 前向きな声をかけたらオーナーの全身からは弱々しさが見えるのに、目だけは怒りに似た強い力が宿っていて、じっと凝らして見てくる。

 部屋の中の空気を重くする、よどんだ空気が充満して、耐えられなくなるような緊迫感が迫る。

 凄むような気迫に満ちたオーナーの目が、嘘みたいに哀しげな目に変わった。

「お辛いですよね。ひとりで頑張らないで、われわれスタッフに頼ってください」

 空気を変えようとしているの?

 院長が、さりげなく私たちのあいだに入って来た。

「頑張るのはルカちゃんでも、ルカちゃんのお母さんでもなく獣医ですから。いっしょに乗り越えましょう」

 院長の言葉を聞いたオーナーの目つきが、温和な優しい目に変わり、その場の雰囲気が変わった。

 私は、オーナーに対していけないことを言ってしまったの? 

 ルカは病状がいいときと、おもわしくないときの波がある。

 ルカと一心同体みたいに、オーナーの心の揺れにも不安定な波がある。

 今、笑顔だったと思えば、次の瞬間には沈んだ顔になる。

「なにか気になることがありますか。ルカちゃんのことでもいいですし、ルカちゃんのお母さんの心配事はありませんか」

 院長はカウンセラーみたい。

 聞いてくれる人がいる安心感に、オーナーがぽつりぽつりと口を開く。

「わが子同然の子が重い病気になると、本当に辛いんです」

 本当の哀しみにぶち当たると喪失感、孤独感、絶望感、そんな言葉は霞んでしまう。

 私の目の前で、やるせない哀しみを訴えるオーナーを見守っていると実感する。

「でも重い病気の子のかわいそうな飼い主ではなく、普通の人間としての話をしたいし、人の優しさに触れたいんです」

 精根尽き果てた声も姿も弱々しい。

「ルカが闘病中でも、ルカも私たちにも毎日の生活の中に楽しいことや幸せなことはたくさんあります」

 オーナーは、今までの想いが溢れ出してきたみたいに話を続ける。

「待合室の方々からも、あわれな飼い主だと同情されたくない。かわいそうが一番辛い言葉で傷つくんです」

 そこだけは、きっぱりと言い切った。

 患畜が重病のオーナーは、特に他人の発する言葉や表情などに敏感になる。

 父がいない私も、たしかに同情の言葉が辛かったし嫌だった。

 院長がオーナーと話すのは日常会話。

 なんてことない雑談を、さりげなく院長が始めて、いつの間にかオーナーが会話をリードして、院長は聞き役に徹している。

 しばらくしたら、気持ちが和らいだのかオーナーが入院室をあとにした。
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