恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「それに強制給餌が終了するということが、どういうことなのかオーナーに何度も何度も説明をしたと伝えただろう」

 無言のまま、目にだけ同意を表して頷く。

「好きなものを食べさせてあげる意味を理解しているのか」

 いったい、どういうつもりだと言いたげに、院長が細める目を真横に流した。

「オーナーが強制給餌を断念したということは、一日でも長くルカを生かすよりも、ルカが一日でも楽に生きられるように。オーナーは、そう決断したんだ」

 刺さるような視線に、息もできない緊張感が続く。

「その上で『偉いですね、頑張ってますね』これらの川瀬の言葉は、とても前向きなものに聞こえるが、オーナーの立場になって聞くと、とても辛い言葉だ。自分が言われたら、どんな気持ちだ?」

 鋭い目だった院長の瞳が哀しげに揺れた。

「ルカの病状はオーナーの心を敏感にしている。オーナーは他人の対応の一つひとつに、過敏に反応して傷ついているかもしれない」

「すみませんでした」
「んんん、ああ」
 違うんだよって言いたいのか、院長が小さく唸って、ため息をついた。

 頭の中で、じっくりと言葉を選んでいるみたい。

「謝ることではない、思いやりの問題だ。これは経験を積まないと難しいデリケートなサポートだ」

 なにかアイデアを練るように、院長が頭を中指で軽くとんとんしている。

「小川さんでは、こういう場合はベテランが応対していたのか」

 スタッフの数が多いし先輩たちが応対していたから、私たちには応対する機会が回ってこなかった。

「誤解するな。これは決して川瀬を責めているわけではない」

 院長が両手のひらを下に向け、腕の力を抜いて緊張を解くように自然と垂らした。

「リラックスしろ。ルカとオーナーが楽でいられることだけを考えるんだ」

 即戦力で保科に来た自負があったのに、経験不足を見抜かれ、とても恥ずかしくて顔が上げられない。

「川瀬の言葉は、今まで生きてきたうちの限られた情報の中で、精一杯にオーナーを気遣った結果、出てきたのは伝わってきている」

 受け入れてくれるの? 半信半疑で顔を上げたら、院長が大きく頷いてくれた。
 少しだけ、ホッと救われた気分。

「ただ初日に言ったことは忘れるな」 
 承知で保科に来ましたなんて生意気なことを考えていた、あのときの私は甘かった。

「まだまだだな」
 院長がホワイトボードに目を馳せながら、ぽつりと呟く。

 院長の淡々とした姿を見たら、一度持ち直した心が、突き飛ばされたように気持ちが沈んだ。

「辛さや苦しみをオーナーだけに背負わせず、俺たちにも分けてもらうんだ」
「頑張りますから」

「なにをだ、頑張ることではない。解決せずに寄り添え」
 俯いたら同時に涙が出そうになり、慌てて頭を上げた。

 もう院長の姿はなく、ひとり入院室で立ち尽くす。

 プライドもなにもズタズタになった。院長の言っていることが正しくて情けない。
 
 脱け殻みたいになって休憩室に上がり、呆然としながら着替えた。

 スポンジの上を歩くように、ふわふわした足どりで病院を出て携帯に電源を入れる。
 また聞いてもらわないと、心がもたない。きついよ。
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