恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 この寝室の前は、どこにいたっけ。

 寝ぼけた頭をフル稼働させて、最後にいたところの記憶を呼び起こす。

 しばらくして思い出した。ソファーに座って院長と子猫の世話をしていたんだった。
 夢じゃないよね、たしかに世話をした。

 ソファーから、このベッドまで歩いた記憶が、まったくない。

 でもベッドにいるから歩いて来たんだね。

 ドアの下の隙間から、檻の中のライオンみたいに左右に行ったり来たりする影が映った。

「あの影なに」
「起きたか」
 誰? 優しく囁くような声は聞こえたけれど、内容がわからなかった。

「院長ですか」
「ああ、そうだ」
 さっきより少し、声を上げてきた。
「入ってもいいか」
「はい」
 待たせちゃいけないと這うように起き上がった。

 急いで髪の毛と姿勢を整えて、もぞもぞ座り直して迎える準備をした。

 あっ、いけない。胸もとを直さなくちゃ。
 はい、いつでもどうぞ、冷静を取り繕った。

「どうぞ」
「失礼」
 慌てて落ち着きなかった私とは対照的に、院長がノックをして優雅に、ゆっくりとドアを開けて入室してきた。

「子猫は、どうですか」
「ぐっすりと眠っている。これで朝まで起きないだろう、なんせ寝るのが仕事だ。座っていいか」

「気づかなくてすみません、どうぞ」
 ベッドのすぐ横の椅子に腰掛けた。ちゃんと聞いてくれるなんて紳士的なんだ。

「安定していて安心しました。あの、ところで起きたらベッドに眠っていて、なにがなんだかわからなくなりました」

「覚えていないか。ひとりで歩いて行った」
「歩いた記憶がないんです」

「それは疲れているから仕方がない。しっかりと自分で歩いていた」

「まだまだ、いけますね。疲れてなんかないってことですね」

「過信するな。いいか、川瀬は過信するな、無理するな」
 過保護。わかりましたよ。

「ちょっといいか」

 頭で整理してから言葉にしようとしている?

 慎重そうに口を開く院長の言葉を、じっと待つ。

「子猫を看てからリビングに戻って来たら、ソファーに寝ながら、うわごとのようにお父様を呼んでいた」
「なんでもないです」
 笑ってみせた。

「うわごとのときは眉間にしわを寄せて、今とは真逆の顔だった。言いたくなければ、これ以上は聞かない」

 頬に触れると、涙の乾いた跡が指に感じられた。うなされながら泣いていたの?

 遠い昔に、遠いところに旅立ったことだけを伝えた。
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