恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
 こんなの今まで経験したことがない。体がぴくりと反応して子猫を抱いたまま、思わずじりりと後ずさりした。

「どうしたんだ?」
「な、なんでもありません。わかりません、失礼します」
 足早にケージに向かい、にゃんこを入れた。

 どきどきが止まらない、それよりも激しく揺れる胸の鼓動はどんどん大きくなって、私はその感覚を持て余すばかり。

 患畜を腕から腕になんて、いつものことじゃないの。
 それなのに私ったら、どうしちゃったの?

 自分で自分の体の反応がわからない。だって初めてなんだもん。

「さて、始めるか」
 くるりと振り向いた院長は、入院患畜たちのカルテを見ながら、ホワイトボードに記入を始めた。

 当たり前だけれど、院長は平然とホワイトボードに書いている。

 広い背中を見ていたら、昨夜の階段での出来事を思い出した。

 あのときとおなじ感覚で、さっきも全身が熱くなったのを自覚した。
 でも、わからないの。どうして熱くなるのかが。
 どうにか胸のどきどきを抑えようと深呼吸をした。

 こら、もう。私の心臓ったら、落ち着かなくちゃダメじゃないの。

 子猫の世話をしてから入院患畜の世話をして、外来診察の時間になるから一階に下りた。

 来院三回目のモカがやって来た。

 目は海知先生のエリザベスカラーのおかげもあって、快復に向かっている。

 院長は一生懸命に声を高くしようと涙ぐましい努力をして、モカと仲良くなろうと頑張っている。

 相変わらず唸るは唸るけれど、噛みつかないところは、ただ臆病なだけのモカの性格だね。

 診察が終わってから、海知先生みたいに小粒のご褒美を与えていた。院長もモカと仲良くなれればいいな。

 診察台の上を片付け、消毒して診察室を出た。

 今日の昼休みのオペは一件、野良猫の去勢だったよね。確認のため、受付の香さんにオペのスケジュールを見せてもらった。

 保科では、野良猫の避妊や去勢や治療費は飼われている子たちよりも、お気持ち程度で安くしている。

 その善意を利用して、どう見てもオーナーの飼い猫なのに野良猫だと言い張り、低料金で治療をしてもらおうとする強者もいる。

 今日の子は、警戒心が強く野良猫らしい風貌と風格がある。

 なんて流暢に言っていられないくらいギャアギャア、シャアシャア暴れ回った。

 連れて来た女性も、ようやく捕まえたって苦労したみたい。

 そんな思いまでして、去勢のために野良猫を捕まえて来てくれた女性には感謝しかない。

 昼休み中には去勢のオペを施し、無事に終わって片付けていた。

 院長は術衣を脱いでスクラブ姿で、一階でなにか食べて来るって下りて行った。

 麻酔が覚めるまで回復室に入っている患畜は、あちこち、よろよろしたり転がるからタオルを敷き詰めて目が離せない。

 オペの片付けも済んだし、茶トラちゃんの様子を見に行こう。歩き出そうとしたらドアが開いた。

「お疲れ様です、お食事済みましたか」
「軽く食べてきた」

 院長が初めて見せる満面の笑みで、後ろ手にドアを閉める。

 どうしたの、別人と見間違えるくらいの笑顔を浮かべて、ずいぶん愛想がいいから戸惑ってしまう。
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