恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
第六章 ブーケに込められた想い
 猛暑の真っ只中、三十代らしきご夫婦が真っ青な顔色で、黒ラブを抱き抱えて来院。

 「院長、急患です」

 受付でオーナーから状況を聞いた香さんの、ふだんより固い声が待機室に届いた。

 体の中を一気に緊張が走る。

「いっしょに」
「はい」
 空気を切り裂くように、迅速に診察室に向かう、院長のうしろを必死で追いかける。

 香さんが状況を記入したカルテを院長に渡し、風を切りながら歩を進める院長が、カルテに目を落として診察室に入った。

 緊急性が高いことは、オーナーが一番わかっていること。

 だから、院長は機敏な動きであるものの、不安を取り除いてあげるように、笑顔を絶やさずに、ふだん通りにゆったりと構えている。

 まずは、黒ラブの大きな体を二人で持ち上げ、診察台に乗せて体重と体温を測定をした。

 そのあいだも、院長は直接問診していく。その隣でカルテに記入する。八ヶ月の女の子で名前はフィオナ。

 串が刺さったままの焼き鳥を食べてしまったそう。

 慌てて指を突っ込んだけれど、あっという間に飲み込んでしまったと、ご夫婦揃ってお互いに顔を見合わせて、驚いた顔をしている。

 お子様のいらっしゃらないご夫婦はフィオナを子供のように可愛がっていて、犬は初めて飼ったそう。

 毎日驚かされていますと、ハンカチで何度も汗を拭きなごら苦笑いの旦那さんとは対照的に、フィオナの頭を撫でながら、今にも泣き出しそうな奥様。

「覚えているかぎりの情報を教えてください」
 院長の落ち着き払った問いかけに、旦那さんが答える。

 つい、さっき飲み込んだって。

 それなら、まだそんなに奥までは、いっていないはず。

 その前後は、なにも食べさせていないって。それなら食べ物が検査の邪魔をしない。

 よし、これなら内視鏡でいける。

 院長とおなじ想いで、自然にお互いの視線が交わり、同時に頷く。

「焼き鳥は、すべて串についたままでしたか?」
「そのまま全部、飲み込んでしまいました」

 この世に頼れるのは院長しかいない、だから、どうかフィオナを助けて。
 そう奥様の表情が訴えているよう。

「フィオナは大丈夫なんでしょうか?」
「串ごと丸飲みしてくれた方がいいんです」

「大丈夫なんですか......」
 奥様の顔がひきつり、院長の言葉を待っているみたい。

「串が食道に突き刺さったり、胃を貫通してしまい、肝臓や膵臓に障害をもたらす可能性が低くなるからです」

「そういうことなんですね」
 前のめりで聞いていた奥様が、安心したように体勢を戻した。

「フィオナちゃんの体にとって、大切な話があります」

 通常の内視鏡は、十二時間の絶食、三時間の絶水が必要だけれど、異物摘出の場合は緊急処置だから、そんなこと言っていられない。

 今、この事態は一刻を争う。

 そのために麻酔下で、内視鏡手術をおこなわなくてはいけないことを、理解してもらわなければならない。

 そして、動物病院では麻酔の事故が多々ある。
 内視鏡手術を安全におこなうための麻酔のメリット、デメリット。

 ご夫婦が納得できるようにわかりやすく、院長は話し始める。
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