恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「池峰ノンネちゃん、お待たせしました。どうぞ、お入りください」
 診察室のドアを開けて、再び満面の笑みで迎え入れる。

 心の歯ぎしりとは裏腹に、顔からは慈悲深い天使の微笑みが自然に溢れ出るって、サービス業の性ともいえる自己犠牲の塊だなって、つくづく思う。

「すみません、こんな遅くに。お願いします」
 そんな泣きそうな顔して、しおらしく言われちゃうと少し許そうかなと思ってしまう。

 だって長い問診票を書くことも、問診が長いことも知らなかったんだよね。

 うんうん、仕方ないよね。だからいいの、いいの、大丈夫、気にしないで。

 なんて、そこまで人間できていませんから。

 オーナーは、ようやく書き終えて診察室に入れば、次は問診が始まる。

 問診票に基づきながら、生活習慣や生活環境とか、これまた長い長い、独自の質問事項を延々に聞いていく。

 これだけでも何十分かかると思う? 想像力を働かせて考えてよ。

 体重と体温の測定を済ませて、新規だから健診もあって、レントゲンや血検やワクチン注射を打っても大丈夫かとかの検査があることを説明した。

 やっと長い長い問診も終わり、診察室を出る。

 入院室にいた院長を香さんが呼んできていたから、カルテと問診票を見せると目を落としながら診察室に入って行った。

 検査室を見渡したら、電源を落としちゃっていた器具の電源が入っていた。よかった、さすが院長。

 すぐに結果が出る最初の検査結果で、お腹に虫はいないことを報告しに診察室に入る。

「採血するから、ここにいて」
「はい」
「ノンネちゃん、ちょっと先生に体を触らせてね」

 院長が聴診器をあてたあと、ノンネの体を隅々まで触診している。

「ノンネちゃん、いい子だ。おとなしいな」

 大きな手で包み込むように頭を優しく撫でたあと、しなやかな指先で優雅に万年筆を走らせ、カルテに記入している。

「健康診断と、ノンネちゃんがワクチン注射を打っても大丈夫かを調べるために採血をして、血液検査をします。よろしいですか」

 あの瞳で見つめられると、やられちゃうかな。ポッとしそうな優しさが溢れる微笑み。

「はい、よろしくお願いします」
 オーナーが髪の毛を片耳にかけながら答える。
「採血の際、前肢の毛を少しだけ刈りますが、よろしいですか」
「はい、大丈夫です。お願いします」
「保定お願い」
「はい」
 お願いって。

 お願いなんて、口が裂けても言うタイプじゃない院長が、診察室中だけはオーナーがいる手前、『保定お願い』って言うのが可愛い。

 二人のときはクールな顔と、ぶっきらぼうな口調で『保定頼む』って、ぼそっと言うのに。

「ノンネちゃん、女の子なのにごめんね。少しだけ刈るよ」
 バリカンの音にも動じない。

「凄いな、驚かないのか、いい子だね。いつもトリミングしているから、慣れっこかな。さて本番だよ」

「ノンネちゃん、いい子ね。すぐ終わるからね」
 採血の静脈確保の保定をしながら、ノンネに声がけする。
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