恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「ちくんするよ、ちょっとだけ我慢してね」
 折れちゃいそうに華奢な前肢を、院長がアル綿で消毒する。

「ノンネちゃん、偉いね、おとなしいね」
「ノンネちゃん、いい子ですね。ふだんから穏やかな子なんですか」
 採血をしながらノンネの気をそらすように、オーナーにも声をかける院長。

「はい、無駄吠えもしないですし、お留守番もできます」
「しっかりと躾をされましたね、素晴らしいです」
 院長が緩やかに口角を上げて、心なごます上品な微笑みをオーナーに向ける。

「ノンネちゃん、終わったよ。鳴かないし嫌がらないし、いい子だな。先生、感心したよ」

 ノンネの頭を撫でる院長を尻目に、採取した血液を入れたスピッツを持って、診察室を出て血検に入る。
 レントゲンは香さんが助手についた。

 しばらくして血検の結果を診察室の院長に報告したら、院長から数字を告げられた。ワクチンの種類の番号だから、用意のために診察室を出る。

 薬棚でワクチン注射を用意するあいだ、診察室の会話が漏れてくる。

 自分の小ささを思い知らされるみたいに、院長の対応は普段と変わらず、優しく丁寧で明朗快活。

 オーナーの話も腰を据えて気長に聞いている。

 院長は根気強く、粘り強く、辛抱強い。

 それもだけれど、とにかく体力、集中力、持続力とか“強い”ってつくことには、めっぽう強い。

 もちろん自尊心も強い強い。

 自分を優秀な者だと思う気持ちや自分の言動に自信があるから、まず獣医師になろうって決意したんでしょうし。
 自尊心が強くないと、やっていけない。

 人として尊敬するのは自尊心が強いのに誰に対しても、決して尊大な態度をとらないこと。そういう姿勢や性格は好感が持てる。

 閉院間際の飛び込みの、こんな状況ならイラッとしてもいいのに、どうしてオーナーにあんなに笑顔で優しく接することができるの?

 いい人。心底、動物が好きなの。

 なんて考えていたら、診察室のドアが開いた。
「ワクチンと保定頼む」
「はい」

 診察室に入って、ノンネに声をかけているあいだに院長がワクチン注射を打った。

「ノンネちゃん、いい子だったね」
 大きな手がノンネの頭を優しく包み込んで撫でるのを尻目に、診察室を出て薬棚に寄りかかった。

 やっと終わった。この新規は例外で長いよ。だから、よけい長く感じた。

 その数十分後、診察が終わった院長が出て来た。特に処方する薬はないから、カルテは香さんに渡している。

 診察室を消毒していると、待合室で座るオーナーが背筋と首を伸ばせるだけ伸ばして、ちらちらと診察室を覗いている。
 忘れ物はないし、どうしたのかな。

 診察室もきれいになったし、オーナーが帰ったら上がりだ。
 というはずなのに。

 ねえねえ、もういい加減にしてよ、オーナーはいつまで話し込んでいるの? 

 すとんと肩が落ちそうなくらい疲れる。ねえ、お願い。
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