恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
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 翌朝、香さんに挨拶をして、いつものように二階の入院室に行くと電気が点いている。香さん、用事があって点けたのかな?

 鼻歌交じりにドアを開けたら、ドアのすぐ横にある回復室のケージと壁の隅っこに、座ったまま寄りかかって院長が寝ていた。

 鼻歌が引っ込んだ。もう驚かせないでよ、心臓がきゅんと締まった感じ。

 ケージの中ではボーダー・コリーの三才の男の子、江間バディが首をぐんと傾げて、きょとんとした顔で見ている。

「そんな可愛いしぐさで見つめないでよ、食べたくなるくらい可愛い」

 崩れる笑顔で振り向いてホワイトボードを見ると、バディの欄にてんかん発作の文字。

 壁に背中を預け、足を投げ出して床に座り込んで熟睡している院長の足と足のあいだにしゃがみ、ケージの隙間からバディを撫でる。

「おはよう、バディ、いつ来たの? 夜間緊急かな。今は台風の時期だから発作が起きちゃったのね。お腹すいたでしょ?」

 てんかんの子は、発作がないとケロッとしていて、ふだんと変わらないから、今は健康な子に見える。

「バディ、あなたに会えて、とっても嬉しい。でも健診やワクチンで会えるほうが嬉しいな」

 ボーダー・コリーは犬の中で一番賢いって言われているだけあって、“一言一句も聞き漏らさないぞ”みたいな顔で、私の顔をじっと見ている。

 散歩に行けないよりも、家族とコミュニケーションがとれない方がストレスな犬種。

「家族と過ごすのがなによりも大好きな寂しがり屋さん。今日には帰れるといいね」
 ひとつ小さな息を吐いて隣を見る。

「ところでバディ、どうして院長はここで寝てるの? こんなに寝汗かいて風邪引いちゃう」

 タオル、タオルと。三階からタオルを持って来て、起こさないように顔と首もとをそっと拭く。

「瞼にくっきり深く二重のラインが入っててきれい。睫毛は長く濃くてマスカラいらないな、元々いらないか」
 吹き出しちゃう。

「目鼻立ちの整った端正な顔立ちの見本みたい。なんて、きれいな顔なの」
 額から鋭いカーブを描いて下がる眉間。

 そこから、一気に天高くそびえ立つみたいに通った鼻筋。

「ジェットコースターとかエベレストみたいに、凄い凹凸」
 起こさないように、彫りの深い顔をなぞってみる。

「好奇心をそそる顔のラインだから仕方ないね、つい触れたくなっちゃう」

 髪の毛も拭こうと少し頭を動かしても、まったく起きない。

 生まれつきだっていうダークブラウンの髪の毛が、汗で少し濡れてトーンを落として輝く。

「聞いて、ねえバディ。あのね、私ね、今とっても恥ずかしい。初めて男の人の髪の毛や顔に触れてしまったの」

 いくら好奇心が勝ったとはいえ、大胆な行動に自分が一番びっくりしている。

「髪はふんわり柔らかくて、子猫の毛みたいで気持ちよかった。顔はすべすべ、気持ちよくて、ずっと触れていたいな」

 胸に手をあて、大きく深呼吸した。

「バディ、こんな気持ち初めて。どうしてかな、体が熱くてどきどきが止まらないの」

 このどきどきは、院長が床に寝ていたからなの?
 それとも。
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