恋愛に無関心の院長が恋に落ちるわけがない
「あっ、バディ。このことは秘密ね、二人だけの」

「俺と川瀬のか。秘密の九分九厘は、本人の口から漏れる」

「起きてたんですか?!」
 真横で大きな風船を割られたみたいに驚いた拍子に、壁にぶつかった。

 痛いっ。私の息を止める気? 心臓に悪いから、やめてったら、人が悪い。

 起きているなら、最初から目を開けていてよ。

「気分よさげな鼻歌が耳に入ってきた。朝から仕事が楽しそうでなにより」

 最初から、すべてを聞かれていたんだ。

「失礼しました」
「おい」

 いたたまれない恥ずかしさに耐え切れなくなり、走り出そうとしたら、飄々とした声に呼び止められた。

 なにを言われるのか、体が固まったまま振り向くことができない。

「壁にぶつかったところ大丈夫か」
「ありがとうございます、大丈夫です」

 すぐに入院室を飛び出して、待機室に行った。

 背中から誰かに胸を掴まれて揺らされているみたいに、激しい鼓動に体中が燃えるように熱くなり、胸と肩が大きく波を打つ。

「落ち着いて、なにもなかった。平常心、そうよ、なにもなかった」
 自分に言い聞かせながら、乱れた呼吸を整え、受付に行った。

「どうしたの、赤い顔して。残暑厳しいから夏バテには気をつけてね」
 香さんが、スケジュール表に落としていた目を上げて心配そう。

「はい。江間バディは、いつ来たんですか」
 とにかく話題を変えたい。

「てんかん発作で深夜に救急よ」
「深夜でしたか。院長がバディのケージの前で眠ってたみたいなんです」

「風邪引かないといいけど。動物のことになると、寝食を忘れて没頭するのよ」

 香さんが驚くこともなく、淡々としているってことは、よくあることなの?

「一日のうち、九十二パーセント以上の時間を動物に費やす。とにかく、あの子は生活の基盤が動物なのよ」

 それだけ動物中心の生活を送っていたら、髪型も部屋着も気にかけない、動物以外は無頓着になるわけだね。

「院長は寝てたんですか」
「そうだと思うわ」
「よくあるんですか」
「珍しくない日常的なことよ」
 いつものことなのか。

「始まりは、たしか明彦が五歳くらいだったかしら」
 香さんが、懐かしそうに遠い目をしながら話し始める。

「飼っていた犬や拾ってきた猫の具合が悪いと、一晩中つきっきりで看病するって言い張って」
 口角を下げて“頑固でしょ”って感じで見上げて、苦笑いを浮かべている。

「両親が寝なさいって言い聞かせても、断固として言うことを聞かなかったわ。そのうち寝ちゃうから、父がベッドに抱いて行ってた」
 困ったような眉で、愛しそうに柔らかく微笑む。

「今も変わってないのよ」
 子供のころから動物好きで、しかも芯と粘りの強さも生まれつきなんだ。

 寝ちゃうの、今も変わらないって可愛い。

 本当に動物にだけは無頓着じゃなくて人間味があるんだ。

「おはよう」
 来た。全身に、きゅっと力が入る。落ち着きを取り戻した心が、また乱れてどきどきしそう。

 深緑のスクラブからブルーのスクラブに着替えて、さっぱりとした顔で颯爽と歩いて来た。

「おはよう。また寝てたのね。風邪引くわよ」

 ちらりと一瞬、流してきた横目が語る。
 “お前が言ったのか”って。

 バタフライ並みだったと思う、私の目の泳ぎっぷりは。

「汗かいてさっぱりした」
「それが風邪を引くって言ってるの。どうして、いつも寝ちゃうのよ」
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