Adagio
「わかりました」

 華美はさっそく仕事に取り掛かるのか、有紗に軽く頭を下げてからすぐに自席に戻った。

坂巻はほぼ無意識的に華美に視線を送り、箱を抱えたまま呆然と立ち尽くしていた有紗に、「それじゃ」と背中を向けた。

「さ、さかまきさんっ」
 有紗は慌てて呼び止めた。

「ん?」
「おうちに入ったサブレ、可愛くてすごく嬉しかったです。ありがとうございました」

「ああ」
 坂巻は照れたように笑いながら振り返った。

「こちらこそ、いつもありがとう」

 いつもなら嬉しいはずの笑顔に、胸がぎゅっと苦しくなる。有紗は心の中で溜め息を落としながら、エレベーターに向かった。

 たったあれだけの会話からでも、互いを信頼しあっていることが良くわかる。

 最近はよく、勤務時間前にオフィスで話をしているようで、坂巻と華美の関係は女性社員の間で噂になっているが、やはりそういうことなのかもしれない。
< 15 / 131 >

この作品をシェア

pagetop