きみの左手薬指に 〜きみの夫になってあげます〜
「もう、それでなくても今日は午前中がまるまる潰れて、分刻みのスケジュールなのにっ。
こっちは急に専務から『婚姻届を用意しろ』って言われて、土曜日で役所は閉まってるし、仕方なく妻にLINEで聞いたら、
『結婚情報誌のゼクシィの付録についてる』
って教えられて、あわてて本屋へ走りましたよ。
なんか、ピンクの婚姻届で、いい歳してこっ恥ずかしいかもしれない用紙ですけど、記入漏れさえなければ、ちゃんと役所で受理してもらえますからね。あ、戸籍地以外で届け出るときは謄本が必要ですからね」
……そうだったのか。
わたしは身体中から力が抜けきってしまうほど、ほっとした。
……シンちゃんは、だれの「夫」でもない。
正真正銘の「独身」なのだ。
「そもそも、専務が『平日は櫻子さんのために、ほぼ定時で帰りたい』なんてワガママ言うから、土日に休日出勤してその穴埋めをする羽目になるんじゃないですかっ!」
「専務」に対する心の声が、ここぞとばかりに炸裂していた。
「もちろん、秘書の僕も休出ですっ!
ほんとに、何回も言うようですけど、うちは子どもが生まれたばっかりなんですよっ⁉︎
うちの妻がワンオペ育児で、育児ノイローゼにでもなったら、専務のせいですからねっ!
……それからっ」
まだ、あるようだ。
「いつになったら、うちのブリウス返してくれるんですかっ!?」
……えええぇっ!?
「『しばらくの間、おれの車と交換してくれ』っていつまでですかっ!? 専務のベンツSLのコンバーチブルに、チャイルドシートなんかつけられませんよっ!妻は『傷でもつけたら大変だから』って言って、スーパーへ行くにも車を出せなくて、うちはえらく迷惑してるんですっ!!」
青井さんはものすごーく怒っていた。
ふとシンちゃんを見ると、両手で耳をすっぽりと塞ぎ、目もしっかり閉じていた。