片翼の蝶



男の子がそう言葉を落とすと、
真紀の眸が揺れた。


真紀は口を開閉させて、
じっと男の子を見つめている。


私も驚いて、真紀と男の子を交互に見た。


男の子はふっと笑うと、
近くにあった机の上に寄りかかった。


「字ですぐに気が付いた。
 だって稲葉の字は、すごく綺麗だから。
 俺が一年の時、稲葉は風邪を引いて
 休んだ俺のためにノートを貸してくれたんだ。
 その時から字が綺麗な子だなと思ってた。
 この交換日記を見つけた時、ああ、
 あの時の子だって思った。
 
 だから俺は日記を書こうと思った。
 もっとこの子のことが知りたいと思って。
 ずっと気づかないフリをして、日記を続けたんだ。
 だって俺だって知ったら、
 稲葉、がっかりするだろうと思って」


「あなたの名前は?」


「大地。吾妻大地だ」


ねえ聞いた?この男の子の名前は、
大地っていうんだって。


そう心の中で問いかけながら、
真紀に視線をやった。


真紀は眸を揺らしながら大地をじっと見つめている。


〈大地、吾妻……大地〉


真紀はポツリと大地の名前を呼んだ。


「あんたに頼んだってことは稲葉、
 もう俺と日記は書きたくないと思ったのかな」


自嘲気味に笑う大地を見て、私は胸が痛んだ。


違うよ。違うんだよ。


真紀はあなたと
今でもこの交換日記を続けたいと思っているのよ。


それはもう、私に縋るほどに。


死んでもなお、未練として残っている。


真紀もあなたにがっかりされたくなくて、
正体を打ち明けられないでいた。


でもあなたは、真紀に気付いていたんだね。


字を見て気付いたなんて、素敵な話。


そんな些細なところから、
真紀のことを見つけ出してくれたんだね。


そう思うと何故か切なくて、胸が苦しくなった。


神様はどうしてこんなにも残酷なんだろう。


きっともう少ししたら二人の運命は違っていたかもしれない。


真紀が自分だと打ち明けて、
お互いがお互いに気付いて、
幸せな道が待っていたかもしれないのに。


死んでしまうなんて悲しいじゃない。


どうしてそんな彼女が死んで、
私みたいになんの取り柄もない人間が生きているんだろう。


神様は不公平だな。


「ねぇ、吾妻くん。もう少しだけ時間をくれませんか?
 彼女に、真紀に時間をください。
 彼女、今自分じゃ文字を書けない状態なの。
 だから私が代筆するけど、
 それは紛れもなく真紀自身の言葉だから。
 だから、一日だけ時間をちょうだい」


〈茜……ダメよ〉


私が言うと、大地は眸を揺らして私を見つめた。


最初は挑むような目つきだったけど、
眸を緩めて、こくりと小さく頷いた。


風が強く吹いて、大地の制服を微かに揺らした。


大地は私にノートを手渡すと、
くるりと踵を返して扉へ向かった。


「稲葉の字を見たからかは分からないけど、
 あんたの字、なんか汚いな。
 女ならもっとマシな字を書けよな」


「な、なによ!失礼な!」


私が怒ると、大地は豪快に笑った。


そして真剣な表情で天井を見上げた後、静かに笑った。


「稲葉のこと、よろしく頼むな」


「うん。分かった」


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