俺を護るとは上出来だ~新米女性刑事×ベテラン部下~
2か月の訓練は都心から外れた田舎の施設で行われる。

 自らも薬物の潜入経験があり、しかもその自らの失敗から同僚を1人殺している嵯峨の緊張も只者ではなかった。まさか、前回同様フォロー役がこのタイミングで与えられるとは思いもせず、また、確実に頼りない三咲が本役など、2人共倒れになるのが目に見えた。

 まず、三咲が抜擢された理由を潜入捜査班の副主任、生島 東子(いくしま とうこ)に詰め寄った。

 赤い唇から煙を吐き出し、ヘビースモーカーでありながらも色気を醸し出している彼女はハニートラップの洗練者で潜入の経験も豊富であり、自らの潜入の際応援で参加していたこともある古い仲だ。

「なあんでか。上からの命令。それだけ」

 彼女の口が重い、というわけではなく、ただの事実なようだ。

「ただ、ハニートラップだけは仕込まなくていいと言われてる。相手が素人好きだからって。そんでもってその他の事は一通りでいいって、どうもずさん過ぎて最初はやる気が出なかったんだけど、3係りも加えて編成班が組まれて大がかりになって、そういうわけにはいかなくってさ。色々考えてるとこ」

 腕を組み直し、ふっと煙を飛ばす。年はもう40近いだろうが、その年を考慮した上で色気を出している。これが敵だったら手ごわいだろうなと、余計な事を一瞬考えてしまう。

「座学は大丈夫だろうが、体力はない。加えて銃のコントロールも良くない。それに予期せぬ事態には焦る」

「どうなってんのよ」

 生島は眉間に皴を寄せた。

「いくら素人が好きたって、その場合は素人のフリをするのが上等手段に決まってんじゃないの。本当の素人使ってどうすんのよ…。しかも、素人好きなヤツはそれを仕込みたがるからね、抜け出すテクニックだけは身につけとかないといけない」

「………やる気はある……それくらいか」

「やる気ったってねえ…ないよりマシだけど…。というか、何で辞退しなかったの?」

「俺は辞退を勧めた、だが上に跳ねられたそうだ」

「……嵯峨君、この2か月が勝負かもね」

 上官は、生島の女性上官を中心に、牧田(まきた)という生島よりも少し若い男が当てられた。牧田は落ち着いて穏やかな性格らしく、三咲はどちらかというと牧田に馴染むかもしれない。

 基本的にはこの3人で徹底的に、三咲に仕込んでいく。

 まずは座学で盗聴の仕方、尾行、鍵開け、追跡、の初歩の初歩から教える。頭は良いのか飲み込みは早く、帰って来た2人きりの宿舎でも、自ら進んで料理を作ってくれた。

 あまりうまいカレーではなかったが。

 だが2か月は交代で食事をするのが当然なので、料理の基本は物を良く炊いたり煮たり、焼いたりしてから味付けをすることを教えて、まあまあ良いスタートが切れる。

 個室はそれぞれあるが、トイレバスキッチンは共同のため、掃除などは全て分担制だ。その経験がある嵯峨からすれば、女性のわりに何もできない三咲が更に頼りなく見えたが、持ち前の真面目さできちんとやりきっている。

 最初の5日はそれで過ぎたが、1日休みを挟んでからの護身術や戦術になると目に見えて疲れ始めた。

 基本、女が敵になることは少ないので、これには牧田が相手役になり1日中道場で2人きりで練習することになった。

 聞けば、「今から私が、あなたを拘束しますから逃げて下さい」の一言から始まったらしい。

 言葉は優しいし、見た目も大人しそうな感じだが、随分実践性を気にしているのか、手荒に扱かわれたのか、1日目は目を泣き腫らして帰って来た。

 道場から宿舎に帰る嵯峨の車の中で、「怖い」と言い始めた。帰宅しても食事もとらず、部屋に籠っている。翌朝行かせることができるかどうか不安になり、即座に牧田に練習内容を確認した。

「いかに殺されるか、を簡単に実践式で教えました。最初が肝心ですから」

 まあそうだ。間違いはない。

 だがそれが三咲には耐えられなかったようだった。

 1人きりの初めての潜入。敵は男。女性的な身体は使い慣れておらず、また、護身も苦手。強要された辞令。宿舎には俺1人。

 苛立ちのあまり、喉が痛いほど煙草を吸ってから、仕方なくドアをノックして「入るぞ」と押し入る。

「電話中です!!」

 かなりの剣幕で怒られたが、相談相手が別にいるのならそれでいい。相原か……もしくは、山本さんか。後者の方が可能性は高い…か。

 まあそれで、明日出て来てくれたら構わないのだが。

 翌朝の心配は不安に終わり、なんとか三咲は出て来る。夕食を取っていないわりに、朝食も進まないようだったので、今日は道場に付き添う事にした。

 特に、牧田の顔色は変わらない。

 昨日と同じ事をすると先に宣言すると、三咲は顔を真っ青にしたが、それでもなんとか道場の真ん中には立っていた。肌寒いのにも関わらず半袖とハーフパンツを着ている。昨日は上下ジャージを着ていたはずだが、何か学んだようだった。

「今から私があなたを拘束しますから…」

 縄を手に持った牧田が言い終わる前に、三咲が後ろを向いて猛ダッシュを始めた。だが、すぐに腕を掴んで倒された。

 牧田はうつ伏せで激しく抵抗する三咲に簡単に馬乗りになり、ものの5秒で両手首を縄で縛り上げた。

 だが、縄は簡単に結んであるだけだ。コツさえあれば3秒で抜ける。

「私がヤクザであなたの姿を形もなく消し去りたい時は、このままクラッシャーにかける」

 三咲は完全に思考が停止してしまっている。おそらく昨日抜け方は教わったはずだが、何も生きてはいない。ただ少し手首をバタバタ動かしているだけだ。

「樫原はヤクザのフロント企業も持っています。その可能性はありますよ」

 身体中が震えている。どうやら、精神的に参っているようだ。

「三咲! 相手の言葉に集中するな。それよりも手首に集中しろ。話は半分でいい」

 勝手にアドバイスすると、牧田が若干睨んだ。

 だがそもそも俺はそのためにここにいる。

「あ!! 抜けた!!」

 白い顔が一気にバラ色になる。

「ぬ、抜けました!!」

 三咲は立ち上がるのも忘れて座ったまま、真っ直ぐの縄を牧田の目の前にだらんと差し出した。

「女性が拘束された場合、犯されるか殺されるかです。犯されて殺される場合が多い」

 再び三咲の顔から血の気が引いた。

「縄抜けは必須です。何度もやりましょう。後、覆いかぶさられてからの逃げ方……万が一、フォローの嵯峨さんが出てきてもやられてしまった時の逃げ方」

 それが一番大事だと頷いてしまう。

「その時は私は逃げません!」

 お前は山本さんで何を学んだんだと、嵯峨はがっくり額に手を当てた。

「そういう、情に流される女性は命を短くしますよ」 

 牧田は容赦なく言い切ると、涙をこらえる三咲に、次の課題を与えた。

 半日ほど付き添って、昼休憩になる。

 何も食べる気がなかったのか、忘れたのか、鞄に目もやらず、すぐに道場の端で寝そべった三咲に、嵯峨は久しぶりに声をかけた。

「飯は?」

「………」

 泣いているようだ。

 牧田のやり方に特に文句はない。潜入捜査の最後の危険は死だし、それは充分すぎるぐらい経験者の俺も学んでいる。

「……」

 嵯峨は静かに三咲の側に腰を下ろすと、じっとこちらを見ながらゼリーを食している牧田を視界に入れながら口を開いた。

「お前の今回の任務は樫原の裏の顔を暴く事だ。麻薬関係の証拠を手に入れればそれで終わりだ」

「いつまで続くんですか」

 思いもよらない速さで言葉が返って来る。話をする気はあるようだ。

「それは半分お前次第、半分状況次第だ。踏込過ぎれば命に危険が及ぶ」

「……具体的にはどうするんですか」

「まだ練っている途中だ」

「………、縛られた事あります? 嵯峨さん」

「あるよ。何度も」

 息を飲む音が聞えた。

「………、その度に逃げたんですか」

「まあ、……死ななかったなあ……」

「私………、絶対死んじゃう」

 さすがにその姿を見下ろした。

 後ろで結っていた髪の毛がほつれ、頬に随分かかって顔が半分以上見えないが、目だけはしっかり前を見ていた。

「……山本さんが生きていたのは奇跡的だった。だがあそこで、皆が懸命な判断をしていたら自体は少し変わっていたかもしれない」

「あれ以上の策があったんですか!?」

 三咲はほどけかけた髪の毛を振り乱して起き上がった。

「山本さんは少しは動けたと思う。だが、お前と俺を側から離さないとと思い自分が犠牲になったんだ」

「………、……そん、な……」

 視線が震えている。

「俺達がもう少し早く離れていたら、左腕は残ったかもしれない。冷静な判断というのはそのためにある」

「…………」

 大粒の涙が道場を濡らす。

「だがそれでも山本さんは生きた。奇跡だ。それは大事にしないといけない。お前も、賢明な判断を下せる冷静さを持たなければいけない。
 縛られるのは動かれると迷惑な時だ。その判断を間違えなければ、そもそも縛られる事はない。
 俺は思う。お前がその判断を誤る事はあまりないと思う。だが、その中でも縛られた時は、かなり危険な時だ」

「………」

 三咲の視線を一身に浴びているのが分かる。

「レイプくらいは、というと言葉尻が悪いが、それは命があっただけ良かったと思わなければいけない。その場合足は結ばない。だが、足を縛られた時は本当に危ない時だと思え。お前くらいの体重ならどうにでもなる」

 縛られて恐怖を感じる時はごく限られていると言いたかったが、逆にリアルだったのか三咲は震えはじめた。

「やだ……。レイプもやだ」

「……」

「レイプされたことあります!? みんなないからそんな簡単に言えるんですよ!」

「そうかもしれない。だが、それは事実だ。命までは取られない」

「…………」

「休憩は終わりだ」

 牧田の声が道場に響いた。

 休憩の間で気持ちを前向きにさせるはずが、時間が足りずに逆効果になってしまった。

「前を向け。お前が稽古に励んでいるなら、俺も自分の事ができる。つまり、お前を助ける訓練ができるということだ」

「………」

 微動だにせず尻を床につけたままの三咲の手首を取って、立ち上がらせた。

「俺もお前を全力で護る努力をする。お前のカウンセリングもするし、作戦も充分練る。俺は自分の仕事に戻るが、夜はまた話を聞いてやる。だから、後7時間。しっかり稽古をつけてもらえ」

 微妙な顔をしている三咲の背中を強引に叩き押し、前へ進ませる。

「飯を持って来ておく。休憩中に食え」

「始めるぞ!」

 牧田の表情が少し険しい。それに気づいた嵯峨はさっと道場から出て行きながら、怖気づく三咲の姿をとりあえず振り切った。
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