麻布十番の妖遊戯
「あの男はそのまま私を二、三日放置しました」

 水も食べ物もなくて、暑いし暗いし、体に力も入らないし、立つことだってままならなかった。外にも出られない。動けるようになったとしても外から鍵をかけられているんです。だから逃げられるはずもありません。そんな状態が続き、とうとう朦朧としだした意識の中で私は死を覚悟しました。

 そんなときでした、黒い大きな靄が目の前を通って行ったんです。何度も何度も。行ったり来たり。靄の周りを覆うように赤ぁく燃えていたのを覚えています。そして不気味に甲高い笑い声も聞こえました。それが何だったのかはいまだにわかりませんが、でも……

「靄ときたかい。靄っていったらなんだと思う? 」

「黒い大きな靄ねえ。俺らは影に潜めば何にでもなれるから一概にこれとは言い難いけど」

「靄だってよ太郎。でかい靄っていったら、あれだよ、あたしが思い浮かべるのは一つしかないね。そうだろう? どう思う?」

「ああ、でかい黒いのっつったらあれしか思いつかないけどねえ」

「あいつならやりかねないよねえ」

「時々人で遊びますからねえ」

「そんなことを言って、まったく仕方のない。ほんにあんたは仕方のない」

 昭子が肩を揺らして笑いを噛み殺している。
 太郎も同じように己の額をパンと叩き、「これは参った」と言いつつ昭子と共に笑っている。

「だからまた始まったよ。昭子さん、太郎、今はたまこちゃんが話してるんだから最後まで静かに聞きぃよ。まったく」

 昭子と太郎が待ってましたとばかりに話に割り込んできて、またしてもあれこれ推測して楽しんでいるのを見兼ねた侍は、たまこに話の先を促す。

「空腹と喉の渇きと体の痛さにもうダメだと思ったときでした。あの男が姿を現したんです。私は怖くて逃げようと頭では思いましたが体はぜんぜんいうことをきかなかったんです。動かしているつもりでしたがまったく動いていませんでした」

 男が大きなノコギリを持っているのが視界の片隅に見えました。
 男が私の腕を掴みました。腕にチクっとするものを感じ、すぐに視界がぐにゃりと歪んだんです。
< 167 / 190 >

この作品をシェア

pagetop