あおいぽりばけつ
吐き出した種をひとつ拾い上げ、まっさらな大地に植えてみた。鮮やかな新芽を見て、心が震えた。

「伊織……まだ力んじゃだめよ」

不規則に押し寄せる痛みに、身体が自然に固くなる。まるで獣のように唸り汗を垂らす私は、きっと私史上最高にかっこ悪くて美しいに違いない。
大人になって、こんなに汗をかいたことがあるだろうか。額にへばりつく髪を払い私の汗を拭いながら母が手を握った。

「いいよ、吉岡さん。もぅそろそろ力もうか」

この子を迎え入れる時にはこんな音が良いと決めたCDはちっとも頭に入ってきやしない。
この子が初めて感じる香りは甘く優しい香りが良いと選んだアロマは入れ忘れたのだろうか、香らない。

ただ、早く会いたい。私の中に居たのに、顔すら良く知らない愛おしい子に、ただ、早く会いたい。

痛みよりも、そんな願いが勝り私の五感は鈍っていた。

「お友達、廊下でずっと待ってるから頑張ろうね」

陣痛が来たとメールを送ってから大分経ったのに、まだ友人は待っているのか。私の野太い唸り声はきっと廊下にまで響き渡っているのだろう。

私の会陰にメスを入れ、「いいよ」と合図する助産師の声。同時にぐぐぐと波に合わせて力を入れれば痛みが弱まっていく。

「おめでとうございます!!元気な女の子ですよ」

ドラマで良く聞くそんな台詞の後に、小さくて力強い泣き声がした。

私が決めたCDなんかよりも、ずっと綺麗な音を奏でる泣き声だった。
私が選んだアロマよりも、格段に良い香りを放つ娘を胸に抱いて静かに涙が流れた。

指を一本、また一本。丁寧に数えて二十。

手に吸い付く柔らかな肌に頬を寄せて、涙が娘を濡らしてしまうと手の甲で拭おうとして、この涙はこの子を思って流した涙なのだからと、二人で泣いた。

「頑張ったね、選んでくれてありがとう」

今まで感じたことの無い愛おしさに痛みは消え去り、ただ、この子を、大切な娘を守ってあげようと心から思った。

「おめでとう、よく頑張って産まれてきたね。守ってくれてありがとう伊織」

ハンカチで目を押さえて、声を震わせながら母が言うから、余計涙が止まらない。
病院のスタッフが呼びに行ったからか、父が雪崩込むように分娩室へ転がって来た。

そして私の胸で息をする娘を見て、優しい笑顔で頭を撫でた。そして取り出したカメラでシャッターを切った。

「……うわぁ」

父の後ろから鼻を赤くした友人が顔を出した。そしてまた、笑いながら泣く。

「お疲れぇ、頑張ったね、痛かったよね、可愛いねぇ……」

アルコールを手に吹き掛けて友人も娘の頬を柔く撫でた。

胸に満ち溢れる喜びに震えながら、娘を眺める。泣いたり、欠伸をしたり、手足をバタバタと動かしたり。そのどれもが、可愛い。

「名前決めとるん?」

母にティッシュを手渡しながら友人が問うた。

「今日は満月だから、満月って書いて、みつき」

ねぇ、と私の声に反応を示さない娘を撫でて名前を呼んだ。
たくさんの愛と涙で迎え入れられた娘の体温は、何よりも、どんな物よりも、暖かい。

夜、私を探して泣き出す娘が愛おしい。
私の香りが薄まれば不安そうな顔をして、私の乳を飲みながら眠りにつく娘を見て守るモノの重さを実感する。

名前通り、丸い目で色んなものを見てほしい。
その丸い目から、たくさんの涙を流して欲しい。悲しみも、喜びも、怒りも。
どんな涙も、私の手で拭ってやろう。大きくなれば肩を抱いて涙の訳を聞いてやろう。
いつだって私が、その受け皿になってやろう。そして誰かのモノになる日、受け皿に溜まった涙を海に流してやろう。

寝転がっていた娘が寝返りを打って、ずりずりと私を探すようになって、目を離した内に座り出して、気が付いたらよちよちと歩き出す。

小さくて丸い手を握り歩く幸せに、不意に胸がぎゅう、と温かく柔い何かに締め付けられてしまう。

「ママ」

「満月、ゆっくり歩こうね、転けてまう」

たどたどしく私を呼ぶ度に、毛穴が開く程身体が火照る。

また、名前を忘れてしまいそうになっていた。だけど代わりに、新しい名前が増えて幸せが上乗せされてしまった。

私に手を引かれ、私を追う姿はあっという間に過ぎてしまうのだろう。

一歩、一歩。しっかりと歩む姿を眺めて私もまた同じ様に一歩一歩、母になる。

文字通り、二人三脚で歩む私と娘。いつまでも続く訳では無いけれど大切に過ごそうと決めた。

「ママ早く!置いて行くよ」

いつの間にか私の先を走る娘を眺めて追い掛ける。
怖くて手を離して歩けなかった砂浜。
きゃっきゃと砂を蹴り上げる姿を後ろから眺めて日々の流れの速さに驚いた。

「なんで、ウチにはパパがおらんの?」

そんな質問も、いつかぶつけられてしまうとわかっていた。
普通と言う漠然とした枠に、悩む日が来る事はこの子をお腹に宿した時にはわかっていた事だ。

「寂しい?」

「ママもじぃじも、ばぁばもおるから寂しくないよ」

その時が来れば、きちんと話してあげよう。私が愛した陸の事を。
だけど今はその時では無い。そう、思う。

「じゃあ、ウチのお名前はなんでみつきなの?」

陽を海が飲み込みだした。そして真ん丸な月が登り出す。月を見上げてゆっくりと言葉を選んだ。

「満月のパパだった人は、お目目が三日月みたいだったんよ」

三日月に惹かれ、沢山の想いを募らせて欠けさせた。不幸がそれを減らして、ちっぽけな幸せが補って。
その最後には、真ん丸な満月になっていた。

強くなれ、と人は言うかもしれない。
くだらない恋に時間を無駄にしたと嘲笑うかもしれない。

だけど、この恋が無ければ、私は強くはなれなかったと胸を張って言える。

私の言葉に首を傾げながら、まだ理解できないとでも言うような表情の娘に手を伸ばした。
頭を撫でれば、絹のような髪が指に絡まりつく。

「大好きだったからね、三日月にたくさん思い出があったの。気が付いたら、満月」

理解できなくて良い。今は。

「わかんない」

会話に飽きてか、しゃがみ砂浜の貝を拾い上げて娘が私に問うた。

「ママはみつきが産まれて幸せ?」

真ん丸な黒目に、真ん丸の月を閉じ込めて陸譲りの青黒く細い髪を揺らすから目頭がじゅっと熱くなった。

「ママを選んでくれて幸せよ」

幸せになる為に選んだこの道が、間違っていたって構わない。今、私の胸を満たすのは、紛れもない幸福感。

「みつきも、ママがママで良かったよ」

愛し合う二人が一緒に居ることだけがハッピーエンドでは無いと、最近良く思う。
欠けたとて、それをカバーする程の何かが満たしてくれるのだから。

「寒いからもう帰ろうか」

大切に守り続けた赤い実の成る木に背を向けて、ゆっくりと歩き出す。
いつか熟れて誰かの手に渡るその日まで出来るだけの愛をこの実に注いでやろう。

この恋をバッドエンドと呼ぶ人も居るだろう。
だけど私は、私は、ハッピーエンドと力強く記してこの話に区切りをつけよう。

そして、また新たな物語を、大切なこの子と紡いで行こう。

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