アイツが仕掛ける危険な罠=それは、蜜色の誘惑。【完】
言ってはいけないことを言ってしまったと思ったのだろう。並木主任の顔から笑顔が消え、申し訳なさそうに眉を下げる。
「……悪かった」
「あ、気にしないでください」
我が家の家庭事情を知らない並木主任を責めるつもりはない。慌てて首を振ると彼は少しだけ微笑み、下駄箱の一番上、右端のボックスを指差す。
「親父さんの代わりに、俺が抱っこしてやろうか?」
何を言うのかと思えば……でもその言葉がとても温かく感じた。
「もう手が届くようになりましたから、抱っこは遠慮しておきます」
私も少しだけ微笑み、脱いだヒールを下駄箱に入れようとしたのだけれど、なぜか彼がその手を掴み眉間にシワを寄せる。
「ボロボロになっちまったな」
そう、私のお気に入りのオフホワイトのヒールは山道を歩いたせいでキズまみれ。ここまで傷んでしまったら、もう修復は不可能だ。
「安物ですから平気です」
並木主任の手をソッと離しヒールを下駄箱に入れると、彼の背中を押して硝子の引き戸を開ける。すると……
昔と同じだったのは、玄関だけじゃなかった。私達家族が"待合室"と呼んでいた受付カウンター奥のホールの内装も、壁に掛けられた静物や風景の絵画も、旧型のマッサージ器も、どれもこれもあの時のまま。
あぁ、あの籐の椅子……あの椅子に座った父さんに、よく抱っこをせがんでいたな。で、家族が温泉から出て全員が揃うと、向こうの一段高くなっている座敷でアイスを食べたんだ……
記憶の隅に埋もれていた懐かしい家族の思い出が私の胸を締めつける。