この空を羽ばたく鳥のように。

* 八月廿八日 *






籠城戦に突入してから、五日が過ぎた。



喜代美は変わらず、杳(よう)として行方が知れない。



あれから白虎士中二番隊の隊士が、戸ノ口原での戦闘後 散りぢりになりながらも数名帰参したと耳にした。

そのたびに私とおさきちゃんは彼らのところに駆けつけた。

その中に喜代美か、おさきちゃんの弟君の雄治どのがいるかもしれない。
いいえ、きっと帰ってきたに違いないと、期待に胸を膨らませながら。

……けれど 今度こそはと出向いても、いずれの中にもふたりの姿はなかった。それどころか訊ねても、その安否さえ不明だった。



期待は打ちのめされるばかりだった。



募る不安を、多忙な仕事に打ち込むことで、最悪の事態を考えないようにしていた。



探しにいきたい。本当は。
何もかも放り投げて―――――。





(でも喜代美は、そんな私をどう思うだろうか)





きっと探しにきたことを喜びもせず、反対に失望させてしまうに違いない。





それが分かるからこそ、今は耐えている。
そう思うことで、自身をこの場所に縛りつける。



目の前の、私ができることを、無心になってただひたすらやり遂げる。





――――今のところ、戦況が好転したという報せはない。



この五日のあいだにもいろいろあった。
良いことも、悪いことも。



良いことと云えば、国境に散っていた各守備隊が続々と若松に帰城してくれたこと。

最初に城門をくぐったのは、小原宇右衛門さま率いる第一砲兵隊百人あまり。
二十三日の籠城戦に突入したこの日の申の刻(午後4時)頃に、冬坂峠から背炙り山を下り、ようやく城下にたどり着いた小原隊は、お城を取り巻いていた敵陣の中を強行突破で入城しようとした。
しかし連日の雨で道が悪く、山道で大砲を放棄してきたこともあり、小原隊は苦戦を強いられた。
そのため隊長の小原さまは討死、その他かなりの犠牲を出しながらもなんとかお城へ入ることができた。

次の日の二十四日にも、旧幕府軍の脱走兵で結成された草風隊などの部隊が到着。

二十五日には白河口から家老•内藤介右衛門さま率いる千人あまりの大部隊が、郭外で待ち構える西軍の包囲網を突破して入城するなど、着々と増える味方勢に籠城する人々は喜んだ。



中でも敵味方双方の目をひく荒業をやってみせたのが、二十六日に日光口から引き揚げてきた山川隊の大部隊。
なんと彼らは無駄な死傷者を出さず無傷で入城を果たした。



日光口から田島宿を通り大内宿まで戻ってきた山川大蔵(おおくら)さま率いる千人の部隊は、お城が西軍に包囲されて入城が難しいことを知ると、参謀である水島弁治さまの進言を取り入れ小松村に入った。

そこで村の村長に頼み、会津の伝統芸能である彼岸獅子を先頭に立ててもらうよう申し入れた。

会津の各村では、その村の彼岸獅子が受け継がれている。もちろん小松村も例外ではない。

しかし、村の男達は戦争の巻き添えを食い、使役として駆り出されている。残っているのが老人や女子供だけなのは武家のみではなく、村人も同じだった。


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