この空を羽ばたく鳥のように。

* 八月廿九日〜激闘、長命寺の戦い *






昨夜の宴会のあと、夜が明ける前に敢行される予定だった出撃作戦は、遅れに遅れた。

時刻の遅れにいろいろな噂が藩士達のあいだで飛び交ったが、そのひとつがこの作戦の大将である佐川官兵衛の深酒だった。





籠城当時、容保公の側に仕えていた少年、井深梶之助が後に語った証言がある。





『佐川氏は両君公(容保公•喜徳公)の御前に召され、特に御盃を賜った。かつ一振の名刀をも賜ったかのように記憶する。
ところが佐川氏は御前において幾盃かを傾け、ついに酩酊して、そこに熟睡してしまった。

そうこうする間に次第に時刻は移る。たしかに夜陰に乗じて敵陣に突貫する計画であったろうと推察する。

そこで、側に在る人々は見るに見兼ねて、しきりに「佐川隊長、佐川隊長」と呼んで揺り起こそうと試みたが、一向に目を醒まさぬ。まったく泥酔者の如き状態であった。

一体これは何故であったろうか。

佐川氏が豪胆不敵の気性を君公の前に示して、その心を安んぜんとの動機より出たものか、あるいは日頃大好きの酒を飲み、知らず知らず、その量を過ごして、ついにかくの如き失態を演じたものか』





後々まで疑問の残る事態であったが、かくしてやっと目覚めた佐川官兵衛が両君公に見送られながら兵をつれて西出丸から出撃した時刻は、とうに日が昇った明け六つ半(午前7時)で敵の兵士が目覚めたあとだった。


それでもこの日の朝は濃霧だったので、突撃隊は融通寺町口から郭外北西に位置する西名子屋町へ敵を蹴散らしながら進み、近辺に布陣していた備前兵や大垣兵•長州兵と長命寺において大激戦になった。

ここでもやはり会津兵は、わずかな小銃と槍による突進が主流だった。

満足な銃器もなく、それも劣悪なものしかない。

それで攻めるとするならば、本来なら少数部隊で夜襲をかけるか後方を撹乱するなどの奇襲戦法を取るべきだった。そして敵兵から武器弾薬と食糧を鹵獲するべきだった。

しかしそれらの戦略はなく、佐川官兵衛の戦法はいつも真正面からの突撃だった。会津藩の士風か卑怯者の振る舞いを嫌い、自ら先陣を切って突進し兵を鼓舞するのはいいのだが、この戦法は多大な犠牲を余儀なくするものだった。

敵兵の銃撃にバタバタ斃れながらも 恐れを知らないかのような会津兵の猛攻に、敵は一度長命寺を手放した。

しかしそこに土佐•薩摩兵の援軍が来ると、形勢は逆転する。特に土佐兵の砲撃する榴散弾に会津兵は苦しめられた。



結局 西軍を駆逐することはできず、会津軍は戦死者百七十人、負傷者九十三人と多くの犠牲を出して撤退する。

この戦いで会津藩は、朱雀士中二番隊長•田中蔵人(52歳六百石)をはじめ、朱雀足軽二番隊長•間瀬岩五郎(29歳三百五十石)、進撃隊長•小室金吾左衛門(42歳二百石)、別撰組隊長•春日佐久良(36歳百石)など数々の将校を失った。



この長命寺の戦いは、参加した長州兵が「名状すべからざる激戦」とのちに語ったほど、会津城下の戦争では熾烈なものとなった。










※酩酊(めいてい)……ひどく酒に酔うこと。

※銃器(じゅうき)……個人で持ち運びする、小銃•ピストル•機関銃などの武器の総称。

※鹵獲(ろかく)……戦いで敵の武器•弾薬•資材をぶんどること。戦利品を得ること。

※鼓舞(こぶ)……はげまし元気づけること。

※熾烈(しれつ)……勢いがさかんではげしいこと。また、そのようす。

※井深梶之助(いぶかかじのすけ)……戊辰籠城時15歳。のちに横浜に出て医師へボンに英学を学び、明治学院の総理として教育界に大きな足跡を残す。

梶之助の証言は、星亮一著『会津籠城戦の三十日』より引用。


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