この空を羽ばたく鳥のように。

* 斗南藩〜立藩から消滅まで *





斗南藩の政治体制は、皆に推された山川 (ひろし)(大蔵(おおくら)改め)が権大参事として最高責任者となり、その下の少参事に広沢安任と永岡久茂がついた。この三人が幼い藩主 松平容大(まつだいらかたはる)のもと中心になって経営に取り組んだ。


斗南藩三万石の領有地は、その中に七戸藩と八戸藩が支配地を分断する形で(はさ)まっていた。
寒冷地で稲作はほぼ不可能、農民は主に(あわ)(ひえ)を主食としていた。


新政府からの扶助米だけでは、とても藩士家族全員の糊口(ここう)をしのぐことはできないと考えた山川は、斗南藩士に「自立の民」であることを促した。
外出する際には佩刀(はいとう)を禁止し、平民の気持ちで地域の人々と接するよう呼びかけた。
二本差しだった武士が刀を鍬に変え開墾してゆくには地元民の協力が不可欠であり、調和を(はか)りながら領内での生産性を高めて藩の財政を確立するためである。


職制も改革し、旧会津藩時代の家禄や身分制を一切廃止した。支給も平等に「一日につき四人扶持、銭四百文」とした。旧藩以来の家柄にも固執せず、才覚のある者は積極的に藩政に参画させた。
山川は権大参事の上の大参事の席を空白にした。これはふさわしい人物がいたら、いつでも指導者を交代するとの山川の心の表れだった。


藩士の住居は移住直後は各村の民家に割り当てられ、分散して間借りしていたが、田名部から一里余り離れた妙見平という丘陵地帯の原野に雨露(あめつゆ)をしのぐ程度の掘っ立て小屋を建てて、そこに二百戸の家族を入植させた。そこは「斗南ヶ丘」と名付けられた。


そして住居の建設とともに逸早(いちはや)く準備を整え始めたのは、子弟の教育の場である。
山川は新しい時代に対応できる人材の育成を重視し、田名部に斗南日新館を開校した。
藩士の子弟だけでなく、女子や地域の子供たちも希望あれば迎え入れた。住まいが遠く通えない者には民家を借りて学校長屋(寄宿寮)を作り、五戸•三戸にも分校を置いた。


藩庁は移住当初旧盛岡藩時代の五戸代官所に置かれたが、下北半島から遠く、その後田名部の名刹円通寺に藩庁と日新館を移すことになる。
藩主の住まいも同じく円通寺になり、山川の母が幼い藩主の世話係を務めた。


支給される扶助米は徐々に減らされ、まだ生計を立てられない藩士達は空腹を満たすため、とにかく食べ物を探した。
老若男女問わず野山へ分け入り山菜を採った。
地元民が全く口にしない野草まで採っていくので、地元の人々は「会津のゲダカ(毛虫の方言)」と蔑んだ。


また別の地方では「干菜(ほしな)も食えぬ斗南衆」(干菜とは干した大根の葉のことで、会津松平家の始祖である保科家をもじったもの)や「会津のハド(鳩の方言)ざむらい」(馬に与える安価な豆などを好んで食べたため)なども言われた。


そのほか浜辺にも出て昆布やワカメなどの海藻も拾った。それを真水でさらして細かく刻み、乾燥させてお粥に混ぜて食べた。これを「押布(オシメ)」といった。


斗南日新館の生徒は通うことが少なくなっていった。
勉強どころじゃない。生きるために食べ物を探したり仕事を見つけなければならなかった。人材の育成を願った山川も、現状ではどうすることもできなかった。


粗末な食事しか取れない斗南の人々は、栄養失調に(おちい)った。病に冒され胃に虫がわき、日に日に死者が増加した。


移住して初めての冬も、飢えと寒さに耐えきれず亡くなる者が多かった。隙間風が吹き込む荒屋(あばらや)で、彼らは暖をとる布団も燃料もなく、藁や米俵に潜り込んで寒さをしのぐしかなかった。



ようやく明治四年の春が来て、斗南の人々は開墾に本腰を入れた。藩庁から農具と植え付ける種などを貸し与えてもらい、荒地を耕して作物を育てた。しかし慣れない農作業では実りはわずかだった。

斗南藩は救貧所を設けて貧しい者に仕事を与えた。
それでもわずかな稼ぎにしかならなかった。


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