月は紅、空は紫
 『日本一の侍』という大層な名目を付けて追い出されたとはいえ、当の仁左衛門にとっては、そんなお家の面子は知ったことでは無い。

 せっかく武門の家に生まれ、日々の稽古は厳しかったとはいえ何不自由なく暮らしていたというのに、いきなり元服の歳には京に修行に出されてしまったのだ。
 しかも、仁左衛門のように剣士としての才覚に乏しい者にとっては道場での稽古は逃げ出したい程にきつく割に合わない程の苦労が付き纏う、それでも実家の面子のためには逃げ出す事も敵わぬ。

 仁左衛門の中にある『剣士への志』というものは、とうの昔に枯れ果ててしまっており、彼の現在の楽しみといえば適当に身の入らぬ道場での稽古を済ませた後に、道場を抜け出し酒屋で呑みに明け暮れる事ぐらいだ。

 この夜も、隣に座った浪人を相手に、道場での愚痴を肴にして五合の酒を飲み、足取りも怪しく酔い覚ましの為に大堰川のほとりをぶらついている。

 風は生温く、三日月も半分ほど雲に隠れている。
 おかげで足元は暗く、手にした提灯が無ければ転んでしまいそうな程に夜道は暗い。
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