月は紅、空は紫
 河原は夜ということもあるのだろう、不気味な程に静けさに包まれている。
 空間の中に存在する音は、静かに川が流れる音、仁左衛門の足音と僅かな呼吸音、それと先ほどから生温く吹き付けてくる低い風鳴りの音だけだ。

「――ったく、やってられねえな……」

 まだ酔いが残っているのだろう、仁左衛門は誰も聞いてはいないのを知ってか知らずか、小さく愚痴をこぼした。
 脳裏に浮かんでいるのは、昼間の道場での稽古の事である。

 十四の時に元服を迎えると同時に、京の仁科流剣術道場に修行に出されて早くも十年の時が経とうとしている。
 しかし、仁左衛門の剣の才能は一向に開花する様子を見せず――それどころか、一昨年に入門してきた八つも年下の弟弟子に良いようにあしらわれるような始末であった。

「才能が全て……かよ!」

 思い出すだけで、昼間に打たれた右肩が疼く。
 痛みを忘れる為、憂さを晴らすが為に、こうして酒をかっ喰らうのだが――酔いが醒めかける頃には忘れようとした事が何倍にもなって仁左衛門の気持ちを抉るのが常であった。

 悔しさ紛れに、足元にあった小石を蹴飛ばす。
 小石はそのまま転がっていき、仁左衛門の二尺ほど先で数回跳ねてから勢いを失う。
 だが、仁左衛門はその小石が止まった地点にたどり着くまでに――転んでしまった。
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