ニセモノ夫婦~契約結婚ですが旦那様から甘く求められています~
『困っている人を見捨てるような人間にだけはなるな』

 父の口癖だ。

 商売人なのに儲ける気がない。店の家賃や光熱費、材料費やお手伝いに来てくれているパートさんひとりのお給料を支払えば、利益はほとんど残らなかった。

 だからうちはとても裕福とは言えないし、夕飯だって三日に一度は残り物のうどんで、幼い頃から遊びに出掛けるといえば公園巡りだった。住んでいるのは、築五十年以上経つこの店の二階。今どき珍しい木製の玄関ドアに、ボロボロと崩れる土壁。天井はシミがいくつもある板張りで、家中すきま風も入ってくる。

 昔は友達に家を見られるのが恥ずかしくて、走って帰ったりしていたっけ……。家庭訪問も苦手だったな。

 丼についた泡をすすぎながら当時を思い返し、思わず小さく苦笑する。

 それでも父は、自分が稼いでいい生活をするよりも、ひとりでも多くの人がお腹いっぱいで笑っている方が幸せなのだ。

 しかし、そんな父も、私の誕生日や小学校で書いた作文が市のコンクールで選ばれたとき、高校の合格発表の日など、おめでたい日には決まって近所にある洋菓子店の中で一番大きな苺のホールケーキを買ってきてくれた。

 毎回ふたりでは食べきれないのに、ケーキが小さくなったことは一度もなかった。私が寂しい思いをしないように、どれだけ仕込みで朝が早くとも、酔っ払ったお客さんがなかなか起きなくて仕事が遅くなった日も、朝と夜は必ず一緒にご飯を食べてくれた。

 誰にでも思いやりがあって、温かな父が私も大好きだった。そして、この慎ましやかな日々が、いつまでも続けばいいと思っていた。
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