檸檬の黄昏
再び場面は事務所室内に戻る。
物音に気づいた茄緒が、顔を出した時だ。
「あれ、麗香さん」
「耕平さんに近づかないでよ」
麗香が茄緒に近づき腕を組み、睨んた。
「……は?」
いきなりの麗香の怒りに茄緒は少々、間の抜けた声出し汗でずれた眼鏡をかけ直した。
「耕平兄さんと沙織姉さんは、永遠の夫婦なのよ。わかるでしょう?」
茄緒は立ち上がり、麗香を見た。
「わかってるつもりですが……何かお気に障りましたか」
「あなた、兄さんと釣りに出かけるそうじゃない。二人きりなんておかしいわよ」
既婚者相手に、と麗香は続ける。
訊くと耕平は職場の女と釣りに出かける、と麗香に告げたらしい。
そして、
いつも二人きりで盛り上がる、と無表情に煙草をふかしながら云ったそうだ。
茄緒は思わず額を押さえる。
またそんな誤解するような云い方を。
茄緒はめまいがした。
耕平はたまに天然なのかわざとなのか、分からない発言をするのは経験済みであるので、またそれかと心の中でため息をつく。
「わかりました。金輪際、耕平さんとは出かけません」
「社員なら耕平さん、なんて云わないわ」
「坂口社長とお呼びすればいいんですね」
「わかればいいの。隣人というのも気になるけど。すぐに引っ越しは無理ですもんね、まあぼちぼちでいいわ」
麗香が云った。
いくら耕平の妻の妹とはいえ他人の自分がそこまで、云われないといけないのか。
さすがに怒りの沸いた茄緒が口を開きかける。
が。
そこへ丁度、外出から戻った、正確には茄緒に追い出された耕平と敬司が事務所に姿を現す。
茄緒は口をつぐんだ。
ひょっとしたら自分は本当は、よく思われていないのだろうか。
先に事務所内に入った敬司が麗香に気づく。
「おや麗香ちゃん」
「麗香?なぜお前がここにいる」
「兄さんお帰りなさい」
質問を無視し麗香は笑顔で耕平に腕を絡めるが、冷静にそれを引き剥がし、耕平が茄緒に顔を向ける。
「坂口社長、長田副社長。お帰りなさいませ」
茄緒がうやうやしく頭を下げると耕平は眉を動かす。
「おや、何だか他人行儀」
敬司が云った。
麗香は満足げに頷き、麗香は踵を返すと軽いステップで事務作業から出て行った。
「なんだ今さら」
「いえ。普通に戻しただけです。サンプルの片付け、しておきました」
それ以降の茄緒はまるでロボットのようだった。
精密で的確だが、感情が皆無だ。
「茄緒」
一日の業務を終え帰り支度の茄緒を、耕平が呼び止めた。
耕平を見る茄緒の瞳は冷たい。
「なにか?」
「云いたいことがあるなら、云え」
「わたしはただのアルバイトで、友達でもなんでもないです。今まで間違っていました。すみませんでした」
茄緒が頭を下げる。
「おい」
「坂口社長。わたしも名前ではなく、相川とお呼び下さい。それでは」
茄緒はさっさと帰宅してしまった。
「耕平。茄緒ちゃんに何したんだよ?」
サングラス越しの敬司の顔が、怒っている。
「昼間に茄緒ちゃんは仕事でも大事だって、話したばかりだろう?おまえが怒らせて、どうするんだ」
「知るか。というか、なぜ原因がおれなんだ」
「温厚な茄緒ちゃんが怒るのは、おまえがやらかすからだろ」
敬司が耕平の顔に指を突きつける。
敬司の推測は外れてはいない。
「ふざけんな」
敬司の手を払う。
険悪な雰囲気になりつつある中年男ふたりが、無言でいると。
「耕平兄さん」
麗香が笑顔で事務所に入って来た。
「迎えに来たわ」
「……すぐ隣だろう」
耕平はため息をつきパソコンの電源を落とすと、戸締まりを始める。
事務所を出た帰り際、敬司は、
「茄緒ちゃんのこと辞められでもしたら、おれは赦さないからな」
と耕平に釘を刺し車で帰って行った。
耕平は茄緒の家の方をに顔を向けたが明かりが灯っておらず、車もなかった。